「公文公は、聖人だった」という考えの教師。
「公文公など、妄想家だ」という考えの教師。
生徒はともかく、教師が派閥に分かれてしまうのは仕方ないでしょう。
横須賀先生はですね、公文公反対派だったようです。
授業の合間に公文式天才児を、実名で挙げて愚痴をこぼしていました。
ただ、これは単なる考え方の対立ではありません。
公文教育研究会は公文国際学園の入学者を手配していたことがあります。
裏口入学という意味ではありません。
あらかじめ入試の半年前に、抜き打ちテストの優秀者に電話で勧誘するんです。
抜き打ちテストは、1993年だったか94年の進上懇で行われました。
いわゆる青田刈りですね。
青田刈りで入学したような生徒は、確かに優秀で成績がいい。
でも、公文式教育の色に染まりすぎていて、扱いにくい。
「わざわざ裏口入学じみた青田刈りをしてまで、扱いにくい生徒を入学させることはない」
そういって、石曾根先生のやり方に反対する先生たちがいたわけです。
日本公文教育研究会の事務局に行って、公文公の教育理念を聞いてきました。
「自分の進路を選択・決定できる子」
横須賀先生が愚痴をこぼしていたのは、まさにこれです。
公文式の優秀児は、自分の進路を選択・決定してしまうので、
進路指導が意味をなさないわけですよ。教師として、面白くない。
まあ、それは一教師の人格的な問題かもしれません。
でも、横須賀先生のみに限らず、
故公文公会長の教育理念に対立する理念を持った先生は多かったです。
だって、親は少しでも偏差値の高い大学に行って欲しいのに、
生徒が「自分の進路は自分で、この大学で十分」と言い始めたらきりがありません。
学校としても、保護者の注目を浴びるためには、
生徒には少しでも偏差値の高い大学に行ってもらいたいはずです。
ここに、故公文公会長の、公文国際学園開校最大の失敗があります。
単純な話、
公文式学習を続けてきた生徒は、自分の限界を知っています。
自分が何歳の時にどの程度の問題を解けたのか分かっているのですから、
18歳までにどの程度の知能の発達が期待され、
どの程度の大学に行けるか気づいているのです。
自分の限界を知ることは決して悪いことではありません。
「君には東大は無理だよ」と言うこともできるでしょう。
しかし、
「息子さんに東大は無理です」と言う勇気ある教師はいません。
公文式学習は、学習する人に対して、
「君には東大は無理だよ」と、それとなく訴えかけます。
だって、ぱっと見で他の学習者との違いが分かりますから。
これが、開校当初の公文国際学園最大の特徴だったとも言えます。
しかし、現場の教師にとってはやりにくいことこの上ない。
「どうして○○君の方が先に進んでいるのか?」
この疑問に、教師は答えられない。
「それでも構わない。それが公文国際学園だ」と言った先生もいます。
「いや、公文式の理念は学校教育の邪魔だ」と言った先生もいます。
これが「扱いにくい生徒」という意味です。
「公文」国際学園を名乗る意味が分かりません。
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