公文公 − 公文毅 = 公文倫子 親と子と、嫁。 大阪大学の数学科を卒業した公会長が公文教育研究会を作り、 経済学部を卒業した毅社長が社長となり、1993年に公文国際学園が開校して理事長となった。 が、岡澤の2007年の web 告発の通り、 公文国際学園1期生の生徒の学力を見る限り、公文式の理論はデタラメだったことが判明する。 これを知ってパニックとなった公会長は1995年頃に病院で他界したそうで、 心労のため確か1997年の末に、毅社長も他界した。 学園生としては、毅元理事長と呼ぶべきかも知れないが、 公文教育研究会と親交のあった先生たちは、今でも毅社長と呼び習わす習慣の様子。 その後、妻の倫子が公文国際学園の理事長を務めていたが、 登記簿上は、2005年に遡って、学園の理事長は空席状態となっている。 & 岡澤代祐 公文公会長とは、確か1992年の進度上位者懇談会で、 岡澤と、岡澤・妹と、一緒に映った写真が残っている程度である。 岡澤は、その他大勢の中の一人で、記憶されなかっただろう。 1993年、公文式学習法がデタラメだったと判明し、 毅社長は「最終教材修了試験」で修了者の実力を診断することにしたが、 結果は、修了者はほぼ誰ひとり合格できず、 公文式学習は生徒の実力には繋がらないことが、証明された。 ところが、その1993年の夏の試験、 小学4年の岡澤代祐が、「数学V教材修了試験」に合格。 その報告が入ると会議室の一同は絶句し、 毅社長は、「あの難しい試験に合格する小学生が本当にいたか」と呟いたとされる。 岡澤は、毅社長に名前を覚えられた。 1996年に岡澤が公文国際学園に入学すると、 毅社長から、退院祝いも兼ねたメッセージが届けられた。 ところが、お会いすることもないまま、翌年末に他界された。 倫子理事長とは面識はない。 5期卒業生の、毅社長と倫子理事長の娘さんとも、面識はない。 永地謙 元常務 公文教育研究会の社員。1947年に鎌倉で生まれたと書いてある。 ちなみに、1979年の入社当時は、東京公文数学研究会という名称だったらしいが。 公文教育研究会では、社長室室長も務めているが、 岡澤の合格通知が毅社長をうならせた時は、すでに社長室室長ではなかったらしい。 いつから学園にいたのか知らないが、 1996年に岡澤が入学した際は、寮担当副校長という役職だった。 だから、あまり意識はしていなかったが、学園では最も偉い常務理事だった。 スイス公文学園の方では理事長らしい。 念のため、名前の読み方は、「ながとち」である。 & 岡澤代祐 つまり、岡澤が身体障碍者として入学する際に、 毅社長から、「岡澤君を宜しく頼むよ」と頼まれていた人である。 頼んだ側は理事長なのだが、公文国際学園に理事長室がないように、多忙な人である。 ちなみに、学園の理事長室は大阪の幼稚園にあると思う。 という事情で、入学当初から顔見知りだったが、 岡澤の所属する数学部の中村先生(顧問だが学園の教師ではない)とは親しいようで、 男子寮の入り口で、数学部員が集まっていると、良く話した。 どうやら、中村先生とは小学校・中学・高校の同級生だったという話である。 永地先生が、数学好きの中村先生を自分の学校に招待した感じ。 数学のY先生 − 岡澤代祐 − 数学のH先生 在校生がどの程度認識しているか知らないが、 これは、公文国際学園数学部における、「先輩−後輩」関係である。 左から順に、1期生・4期生・5期生である。 Y先生は、岡澤入学時に数学部から離れており、 本人は自分が数学部員だったことも否定しているが、いろいろあったらしい。 2008年に生徒の誰かが送ってくれたメールには、確かに在学中から噂や心当たりがあった。 いろいろあった人だ。追及しないでやってくれ。 H先生は、それこそ岡澤とは親しい。 在学中に、一緒に撮影した映画のビデオテープまで現存しているのだから、諦めなさい。 2009年の同窓会総会の懇親会で、3人が同じテーブルに座るという珍事になった。 岡澤が、初対面のY先生に丁寧な挨拶をして、Y先生もただの後輩だと思って丁寧な挨拶を返してくれたが、 「数学部の4期生」だと種明かしをすると、笑い崩れていた。 & 綿貫先生 言わずと知れた数学部顧問。 だが、そのわりには、行事やイベントの時しか参加しない。 少なくとも8期生入学時までは、数学部の日常的活動は、主に週1で中村先生との集まりだけだった。 ただし、4期生入学時だけは別で、 中学1年生の岡澤に、毎日3問ずつ数学の問題を与え、それを楽しみにしていたという。 冒頭の公文公会長らとの関係で言うと、 公文教育研究会からの奨学金で3つの大学を卒業しており、学園には恩義があるという。 & 8期生 そんな数学部の事情もあって、 岡澤は1期生のM崎部長に倣って、新入生を相手に数学講座を始めた。通称「岡ポン講座」 新入生は3人で、男子はK君だけで、MさんとKさんは女の子だった。 9月に、7期生のT君が転入してきたので、誘うと彼も「岡ポン講座」に参加するようになった。 冷やかしで来ただけのメンバーは、数えていない。 そんな8期生から、なぜか岡澤は有名人で、 中1−Bの教室に行ったとき、中から出てきた生徒に囲まれて質問攻めにされた。 その謎が解けたときは大学2年で、そのMさんの家に招待されたときだったのだが、 8期生の入学前、公文式の教室で配られた「公文ニュース」に、 「最年少で数検1級合格」として、岡澤の名前と顔写真が掲載されてしまったらしいのである。 7期生のT君と、8期生のMさんは、 ここまで書いてしまうと実名がバレてしまうのだが、翌年には数学オリンピック予選に通過した。 このMさんの、「中学2年で予選合格」という記録は、 「1期生の大河原と、4期生の岡澤と並ぶ公文国際学園最年少記録」である。 で、8期生のMさんには、彼女が高校2年生の時に家に招待され、 当時、確か中学1年だったMさんの弟と、Mさんとに、数学を教えたことがある。 おそらく、Mさんの弟は、岡澤と面識がある最年少の後輩で、12期生? 羽生(内村) 正式名称は内村。 埼玉県羽生市出身なので羽生という呼び名が定着し、読みは「はぶ」でなく「はにゅう」である。 岡澤とは、1993年の公文の進上懇で初対面。 互いに互いの実力を感じていたが、岡澤の方が上から目線だった。 岡澤は、上記の通り1993年に「公文式数学最終V教材修了試験」に合格したが、 あまりの合格者の少なさに、公文教育研究会は1994年、数学R教材以降を中止してしまった。 つまり羽生は、公文式数学教材に関しては、岡澤に追いつく道さえ断たれてしまった。 いちおう、R教材以降は研究教材として残され、 公文国際学園にはR〜V教材に加えて、大学入試問題集のZ1教材とZ2教材がある。 ただし、Z2教材まで制覇したのは、「1期の大河原と4期の岡澤だけ」とも噂され、 岡澤は人生で2度の数学最終教材終了を果たし、大河原先輩は人生で4度の偉業を達成しているらしい。 一方、岡澤のライバルとして有力視されていた羽生は、 「これだけの数学の実力を持ちながらも身体障碍者」の岡澤の影に隠れてしまったのである。 という状況で、すぐには数学部には入部せず、 囲碁将棋部は続けながら、最初に入部したバスケ部は辞め水泳部にも入部し、 中学3年の頃にようやく数学部にも入部して、メディアミックス部にも顔を出すようになった。 羽生の影響だけでもないが、岡澤もメディアミックス部に顔を出すようになった。 中学1年当時は母親同士も仲が良く、 羽生の母親は、自分の息子がなかなか数学部に入部しないことに不満の様子だったが、 大学は最初から「数学科志望」ではなく、東大医学部志望だった。 & 永地常務 羽生・母と永地常務が親しくしているのを見て、 岡澤・母が、羽生・母も毅社長関係で永地常務と知り合いなのかと聞いてみたら、 実は学会繋がりだったような記憶が少しある。 つまり、岡澤は、公文の内部事情に詳しくて当然なのだ。
小川三四郎探偵事務所
代表取締役 岡澤代祐 sanshiro@sastik.com |