検証 ザ 「数学者は病気!」 2011.10.7. −ユング心理学のフロンティアのような人生− ・ 数学者はチューリング・マシン 冒頭から難しいことは言わない。 ただ数学史の立場から、 人間心理がチューリング・マシンにしか見えなくなってきた。 さらに、純愛の真実ならば、 IQ165 以上を測定不能とする米国心理学会の主張は、比喩ではなく限界なのかも。 チューリング・マシン・・・・・・証明可能な真実を延々と印字し続ける仮想計算機 −チューリング・マシンを作ることは可能か?− あまり本当のことを印字すると、周りの人に叩き壊されるから無理です。 ・ 夏のモテ服大研究 確証バイアスの話をする。 アリババが40人の盗賊たちを追いかけてゆくと、 盗賊Aは、財宝の隠し場所の扉の前で、「開け ゴマ」と叫んで扉を開けた。 盗賊Bは、財宝の隠し場所の扉の前で、「開け ゴマ」と叫んで扉を開けた。 盗賊から財宝を奪い返そうと考えたアリババは、 盗賊たちの留守に、扉の前で何と叫ぶのが正しいのでしょうか? ここで「開け ゴマ」と叫ぶのが、確証バイアスで、 扉は単純に音声に反応して開閉する仕組みで、何と叫んでも構わなかったら? 数学というか、論理学用語で申し訳ないのだが、 多くの人は、十分条件だけを考えて、必要十分条件が何なのかは考えないのである。 それで、いつまでも「開け ゴマ」にこだわって、 誰も、別の呪文を使って扉を開けようとは試さないという、行動制限が自然に生まれる。 これを、モテ理論に応用すると、 ある中学で、女子生徒に人気の男子を観察したところ、 1組ではサッカー部のキャプテンで、ギターの得意なA君が1番人気でした。 2組ではテニス部のキャプテンで、クラシックが趣味のB君が1番人気でした。 彼らから女子生徒の視線を奪い返そうと考えたC君は、 何を心がけ、どのように自分をアピールすることが重要だと言えるでしょうか? ここで、彼らの路線を踏襲するのが、確証バイアスで、 3組では数学部のキャプテンで、身体障碍者の岡澤君が1番人気だったら? この結果は、数学部のキャプテンらしい理屈であり、 岡澤君が、女子生徒にモテるための「必要十分条件」を追求した結果だと言える。 岡澤君も、自ら確証バイアスを打ち破ったのではなく、 自分が身体障碍者となった後も、意外にモテるので、調子にのっただけなのだ。 表題の由来は何かというと、 「流行の服でないと女の子にモテない」という、確証バイアスを打ち破る実験。 あえて、「数学は真理です」Tシャツを着て、 女子東大生にアンケートをとったり、渋谷や原宿でナンパしたり、実験をした記録。 ・ 数学者の釣り橋効果 たぶん、数学の公式を覚える時、 貴女の血中セロトニン濃度は低下していて、危険信号を「危険」と見抜けない。 だって、そうとでも考えない限り、 cos(α+β)=cosαcosβ−sinαsinβ なんて見るからに危険な公式、覚えられない。 たぶん、釣り橋を渡っている最中も、 釣り橋の危険を忘れるために、貴女の血中セロトニン濃度は低下している。 だから、その最中に性的に挑発されても、 危険信号を「危険」と見抜く能力が低下しているから、たぶん上手に拒否できない。 すると、数学を教えるのが上手い人は、 催眠のようにして相手の血中セロトニン濃度を低下させ、抵抗感を払拭できる人。 この状態では、様々な挑発に弱く、 恋愛関係への発展も容易だし、相手を宗教的熱狂に導くこともできるだろう。 何が言いたいか。 算数教育で始まった、創価学会と公文教育研究会の宗教的熱狂である。 大人も感心する算数教育。 セロトニン濃度を低下させるから、容易にのめりこんでしまうんじゃない? 小さい頃から算数教育をする。 催眠感受性の高い、子どものセロトニン濃度をいじったら、将来に禍根を残すよ? さらに、憶測で続けると、 証明を思いつかず、辛抱強く待ち続ける間の数学者は、セロトニン濃度が高い。 解けた瞬間、β−エンドルフィン。 その後、プロラクチンまで分泌されるか知らないが、セロトニン濃度は低下する。 数式に恋をする数学者の構造。 タナトスの正体って、このメカニズムじゃない? ・ 月食の仕組み 警察は、数学者に勝てないだろう。 38万q離れた場所の出来事を「地球の影」と言い張る人たちに、勝てるの? 現場を見なきゃ、犯人が分からない警察。 既に古代に、行ったこともない月までの距離を概算していた人たちに勝てるの? 「前例があるから分かった」のでなく、 「前例はないけど、他に考えられないから」という理由で動く人たちには勝てない。 人間は、光と影を同時に見ることはできず、 という心理を利用すると、警察は犯人から、自白を引き出すことができる。 被害者の影ばかり見て、夕日に気付かず、 「夕日に照らされたお前の影が、路地から出ていたよ」などと言われ、自白する。 真犯人だと、冷静な答えができない。 「私は現場にいたのですから、それは私の影です」と答えれば済む話なのだから。 つまり、警察は犯人の影を追わずとも、 容疑者の心の影を追っていけば、事件の全体像を復元できるという話だ。 月食とは、偶然の事故の一種である。 「どのようにして偶然の事故が起きるか」知っていれば、警察から逃げられる。 「ああ、あれは偶然の事故です」と、 警察官に揚げ足を取られる隙も見せずに、完璧な「偶然の事故の目撃者」になれる。 逆に言うと、本当は犯人でなくとも、 「早く取り調べを終えて欲しい」と喋った嘘が原因で、真犯人扱いもある。 例えば、証言からの事実の復元という問題。 人は、自分が感動した側面から話すから、同じ出来事が違う話に聞こえる。 一方の話が、他方の話の影になっていると気付けば、 話を大きくすることなく、2つの話を繋ぎ合わせて真実を復元できるわけである。 前例があれば、警察も真相解明できる。 だが岡澤のように、独創的なイタズラを考えては実験する相手には手がない。 岡澤 「そうか。一般人の想像力は、この程度の問題も解明できないのか」 だから、安心してイタズラできる訳である。 ・ 人の心は複雑か? たぶん、複雑なのは人の心でなく、 たいていの赤ん坊は生まれたばかりで、名前も知らないものに囲まれている。 という話から始めるが、文明批判でなく、 赤ん坊の体は生まれたばかりから、目や耳や口に、お腹に尻に手足に囲まれている。 その事実を認識する作業が、複雑なのだ。 ハードウェア(身体)の使い方を覚える作業が複雑なだけで、心が複雑なのではない。 数学者の言い方で済まないが、 これは、OSをインストールする作業と変わらないと思う。 「そんな単純じゃない」と言っても、 自分の目や耳が信じられなくなる度に、目や耳の使い方に自信がなくなってくる。 だから、五体満足だと言いながら、 人間、19歳になる頃には、自分の身体の使い方に、絶対の自信が持てなくなる。 そんな冷たい言い方になるわけだが、 機械的な処理でなく、誇張や単純化、補完、忘却するから、「心」なのだろう。 27歳の今も、身体の使い方への自信から、 困っている人(特に女の子)にアドバイスをして、感心され続けているだけである。 書き終えて個人的な感想で恐縮だが、 岡澤の親戚には、実年齢より20歳若く見える60代〜90代の先人が多い。 ・ 嫁のメシがまずい 科学知識の誤りは別に書いたが、 これは、もしかすると、テレビで子育てされた世代なのでは? 今でこそ、保育所が一般的だが、 「保育所に預けるより、家でテレビでも見せておいた方が安心」時代もあった。 教育界で非難され、保育所が普及。 だが、テレビで子育てされた世代には、司会者の笑顔が母親の笑顔より眩しい。 だから、自分の舌を信用せずに、 テレビでの紹介レシピを工夫し、岡澤の気付いた間違いに気付かない。 だから、メシが不味くなるのだ。 という未来を予測した政治家は、子どもをテレビから遠ざけるために保育所を作った。 でも、この因果関係は公表しない。 公表したらマスコミ業界を完全に敵に回すし、それでは民主主義が成り立たない。 すると、同様の理屈で考えると、 皆と同じものを持っていないと安心できない消費者は、テレビCMの効果。 似非科学に聞こえるので皆は笑うが、 米国が法律で禁止している「サブリミナル効果CM」は、たぶん絶対に効果ある。 小さい頃から、CMを多く見ると、 芸能人の笑顔が心の底から染みついて、CMの生活が夢になるというわけである。 政治家の、男女共同参加の真の意味は、 「乳幼児にテレビばかり見せている専業主婦は有害」ということだろう。 でも、口が裂けてもそんなこと言えない。 経済への影響の前に、テレビを敵に回したら選挙に勝てなくなったからだろう。 ネット選挙は、ああ、テレビ局の猛反対。 それで心にもなく「働く主婦を応援」しているだけで、だから失言するわけである。 ちなみに、岡澤家にこれはなかった。 2歳の頃の岡澤に、母親は付きっきりで遊んでいたし、NHKにCMはない。 これでは、逆に岡澤は自立できないが、 神様は、そんな岡澤を自立させるために母親に命じて、妹を虐待させたわけである。 すると、2歳の妹を育てるのは兄の役目で、 兄に比べれば妹の方がテレビの影響を受けているが、その程度という話である。 たぶん岡澤・母は、3歳前の息子にはテレビを見せなかった。 だからテレビを禁止された岡澤・父は、2歳の息子とマンション麻雀に行った。 「だって、『麻雀はダメ』って言わなかったじゃん」 「常識で考えれば分かるでしょ。2歳の子を連れて麻雀にいく父親がいますか!」 さらに、もう一つ続いて閃いたのだが、 かの中2−Cの岡澤−亜友−H嬢は、 幼少期にテレビの洗礼を受けていない。 なんで女友達のことまで断言できるか。 あの二人は、両親が日本人のくせにオランダとトルコ生まれで、現地のテレビは・・・ つまり、テレビの洗礼を受けた子どもは、 テレビが放送している範囲でしか想像力が働かず、ああいう学校生活はできない。 さらに、達弥やY子ちゃんも、 公文式教材に育てられたわけだから、テレビの影響は相対的に弱いはず。 すると、1980年代の公文式は有害だが、 「テレビに教育されるよりは、公文式プリントに教育される方がマシ」だったと。 CMのないNHKだけは、及第点。 ・ 鉛筆は黒い消しゴム 美術のデッサンで、恩師の楠田先生は、 「消しゴムで消すと考えてはいけません。消しゴムは白い鉛筆です」と言った。 つまり、悩んで描き直すことも芸術のうちで、 「思春期の試行錯誤も人生の糧になります」という、そういう話にも繋がってくる。 岡澤が、楠田先生を尊敬していた理由は、 「数式も芸術を表現していると思う」という岡澤の意見を、許容してくれたこと。 それで、A組の岡澤は授業の絵本制作で、 「数式が散りばめられた絵本」を制作し、偶然その本を見つけたC組の生徒を驚かせた。 生徒 「先生。これも美術なんですか?」 先生 「私は、立派な芸術作品だと思いますよ」 −あったなあ。そんな話。「宙返り」みたい。 これも、確証バイアスですよね。 美術の授業で生徒がお決まりの作品を作るのは、確証バイアスの仕業である。 「本物」は、意外にこれを許してくれる。 国語の真貝先生も、高校1年の時に岡澤が書いた宿題の小説を、高評価してくれたし。 現代美術への、「何でもアリだな」という感想は、 「世界は経済で救われなければならない」という、固定観念に囚われた寂しい科白だ。 楠田先生は、「消しゴムは白い鉛筆」と言う。 なら鉛筆は黒い消しゴムなのかと考えてみると、残念ながら Yes としか言えない。 教育学は、学びの必要性を訴える。 一方で反教育学は、子どもには学習を強制する必要はないと訴えて対立している。 「子どもに必要な知識」の有無が論点。 真実はそうでなく、「子どもに教えるべきでない知識」があるだけじゃないの? ・・・・・・そんなの決まっているじゃん。 子どものうちから、人間の無力さを教えてはいけないのですよ。 そして、「鉛筆は黒い消しゴム」で気付く。 一般人は整理して書き込まれた「東大生のノート」を有り難がるが、 −数学者は、何も書いていない計算用紙を有り難がる− ・ 人間の想像力の翼 楠田先生の言葉を意識したのは、東大入試の本番。 「これでは部分点にもならない」と、解答用紙を埋め尽くしかけた解答を全部消した時。 「もう少し頑張れば正解に」という望みを捨て、 潔く答案を全部消し始めたのには、さすがの試験監督の教授も驚いていた記憶が少しある。 数学科は、こういう潔い「損切り」ができるから、証券会社に歓迎される。 そもそも岡澤は、玲奈ちゃんの死を知った時点で、 「数学科には進学するかも知れないが、数学者の知能は取り戻せない」と、損失を確定させた。 すると、美術のデッサンが「損切り」に通じるなら、 2つの羽根のついた構造物を、破壊した育雄を見た木津には、胸に響くものがあったはずだ。 すると美術家の楠田先生も、 美術の授業で数式の絵本を作った少年を、観察していたかったかもしれない。 まあ、先生の期待通り、その少年は、 翌年の数学の授業中に、前の席に座った「踊り子」と、少女漫画の付録を没収されましたよ。 −さすが数式の絵本を作った少年だと、木津は思った。 あらためて、大江健三郎の偉大さに気付く岡澤でした。 人間の想像力は、自分を傷つける方向には飛び立たない。 だから、美術家は対象に距離を置く。 対象に没入しすぎた美術家は、ゴッホのような壮絶な生涯を送るのかもしれない。 そして、その訓練を受けていない子どもには、 人間の無力さを思い知るような対象を観察させるべきではなく、岡澤の存在は有害だったと。 その自覚のあった岡澤は、同級生と距離を置き、 玲奈ちゃんの死を、自分が認めた羽生以外の生徒には知ることを許さなかった、ことになる。 中学・高校時代、気になる女の子はいて、 美術大学卒 ・・・・・・ 1名。 ミュージシャン ・・・・・・ 1名。 漫画家 ・・・・・・ 1名。 公文国際学園の有名大学進学率に反して、芸術家肌を狙い撃ちした感がある。 ・ 確証バイアスと天才 対象に距離を置く訓練を受けて初めて、 自分の無力さを思い知る対象に触れることが許され、自分の無力さを理解できる。 すると、確証バイアスというのは、 子どもの成長のため、想像力が自分を傷つける方向に飛び立つのを防ぐ安全装置だ。 発明王エジソンの逸話では、 研究室の火事を見物していたという、絵仏師良秀のような話が残っている。 百獣の王すら畏れる火だが、 「この程度の火事に対して自分は無力でない」と、それがエジソンの理屈である。 おそらく、子どもの頃には、 思いつきの実験と失敗を繰り返し、「傷つくことだけ、上手になって」いたのだ。 エジソンも、岡澤も、平田満も、 「あの階段から落ちたくらいなら、たぶん死なない」と思ったから、無理をした。 ああ、そう言えば岡澤の親戚にも、 子どもの頃に忍者の真似をして、階段の一番上からダイブした人、いたよなあ。 奇跡的に宙返りして階下に着地。 その後、バイク事故で心肺蘇生手術を受けて、岡澤家に前例を作った偉大な先人。 あの人、窓からも飛び降りたよな。 想像力だけで、自分を傷つける方向に飛び立つ天才かもしれない。 観衆 「酒でも飲んでるんじゃないのか?」 チエ 「親の欲目や。シラフでああいう生活してるから、怖いねん」 ・ 家電製品はなぜ売れるか もとを辿れば自動車王のフォードだが、 近頃の家電製品は、次々と常識を打ち破ってゆくことが甚だしい。 究極の珈琲の話の中でも書いたことだが、 これまでの家事の面倒は次々に「迷信」であることが暴かれてゆく現代の科学文明。 科学は、迷信の化けの皮を剥いでゆく。 現代の科学は、それまで迷信に縛られていた主婦を、家事から解放してゆく万能の技術だ! −逆じゃないか− むしろ、今までの家事を「迷信」と糾弾し、 「自分は何も知らなかった」ことに不安を覚えた主婦を、台所から追い出すシステム? 科学は、常識を破って進化してきた。 だが、産学の連携により、「常識を打ち破る」こと自体が目的になってしまったように見える。 それは、決して科学の楽しさなどでなく、 せっかく見つけた魔法の扉を利用しようと、深く考えず財宝を隠した盗賊の発想に似ている。 おそらく、実際には大した発見じゃないのに、 会社はノーベル賞級の発見のように製品を宣伝してくれるから、発見者は気持ちが良い。 たぶん、大学の指導教授なんかが見たら、 「その程度の発見に酔いしれている暇があったら次の研究計画を立てろ」と辛口の評価をする。 あれ、これは法律の話で書いたことだよな。 現代科学の専門知識は、専門知識のない人から金を巻き上げるための道具になり下がった。 「でも、無駄な家事はしたくないでしょ」と言われても、 無駄な家事をしたくないばかりに、無駄な公共事業で仕事を増やしたら意味ないでしょう? 無駄な家事は文化を生むが、無駄な公共事業は何も生まない。 数学的思考は、徹頭徹尾無駄であることが多いという点で、それゆえに尊いのである。 古代ギリシャでは、知識の実践は慎めとされた。(*) アルフレッド・ノーベルも、知識を実践した罪を反省して、遺産をノーベル賞として残した。 だから、エジソンの話の次に書いた。 エジソンが失敗にもめげなかったのは、「傷つくことに慣れていた」からである。 最低賃金が保障されていたからでない。 逆に、最低賃金が保証されたせいで、 人々の生活を豊かにしない類の発明品が、資源を浪費していることに気付くべきだ。 (*)・・・・・・「もえたん」に、そんな例文があった気が・・・・・・ ・ 簡単そうに見えるけど 簡単そうに見えるけど難しいこと。 「枕草子」みたいだが、「白い紙の使い方」って、意外に難しいんじゃない? 3歳時の筆跡が、七夕の短冊しかないように、 普通の人間は、白い紙に、自分の願望を書いてしまうサガなのである。 高価な白紙の束を与えられて、 「パーッと計算用紙にでもして使っちゃいます」と答えられる人は大物だ。 紙や粘土板の発明から数千年。 人類は、いまだに白い紙を与えられると、無意識に自分の願望を書いてしまう。 玲奈ちゃんの事件の推理ミス。 「玲奈ちゃんが、ぼくを追って飛び降りなんてするわけない!」願望のなせる技である。 本来、あの程度でミスはしない。 無意識の責任回避願望が、「飛び降り」を「飛び込み」とする失敗をやらかしたのだ。 すると、一般人が自分で訴状を書くと、 被告側弁護士に「それは願望に過ぎない」と追及され、証拠調べの前に終結する。 ああ、だから東大法学部は優秀なのだ。 だが「白い紙」の用法に関しては、しょせん東大数学科には勝てなかったわけか。 あれ。ぼくの女友達は、芸術系が多い。 ぼくが付き合う友人を選ぶ基準は、「白い紙の使い方を知っているか」なのだろう。 経済学部生に、白い紙の使い方を聞くと、 「今、お金を印刷すると、インフレになります」とか答えるから、数学者に見放される。 ああ、それでフォン=ノイマンは、 「お前らに使わせるには紙は高級品すぎる」と言って、電子計算機を作ったわけか。 計算は、練習なしで出来るものではない。 だが、計算練習に意味を求めるのは間違いで、あれは純粋な時間の無駄だ。 いや、「無駄である」ことに意味がある。 「無駄である」ことを認めたくない人間の心理作用が、無駄を自信に結びつける。 計算の上達速度には、個人差があるが、 本質的には、「自分の間違いを10回認めるまでにかかる時間」が上達速度だろう。 すると、計算練習に意味を求める考え方は、 自分の間違いを認めることが出来ずに悩んでいる時間に意味を与える考え方。 教育論として、積極的に推奨すべきだろうか? だから、「正しい計算練習さえさせれば良い」という考え方には、疑問が残る。 別に、そういう教育方針で育てるのは勝手だが、 「そんな教育に使うには紙は高級品すぎる」から、携帯用ゲーム機で代用してくれ。 念のために言っておくと、 「白い紙(タブラ・ラサ)」とは大脳新皮質のメタファーである。 ・ 泥棒と詩人 文学の本質は虚構にあるという立場では、 「芸術領域にまで高められた嘘」こそが真の発明品であって、人々を豊かにする。 実存主義者の、無賃乗車の喩えでは、 ジャン=ジュネは、「印税泥棒を続ける限り、『詩人を辞めろ』とは言われない」のである。 そうか。「嘘吐きは印税泥棒の始まり」 笹公人の詩集から、 「処女にしか 渡れぬ橋が ありまして C組の女子 誰も渡れず」 つまり、発明家はまず、嘘を発明すべきで、 「自分の生活費をまかなう程度の嘘も発明できない人が、偉大な発明をできるのかな?」 すると、アメリカの大金持ちの夢の美談の、 「私は君の才能を買っているんだ」と小切手を差し出すのは、発明の品質を落とすだけだ。(*) 岡澤は、とても本当のことなど説明できず、 最後の最後まで亜友・父を騙し続けて亜友に公文国際学園を卒業させ、亜友・母を卒倒させた。 論理的に真実を追ってゆけば、発明はできる。 ただし、心理学的に受け入れがたい真実に無意識が拒否する人は、諦めた方がよい。 つまり、電車の窓から黒いヒツジが見えたとき、 「我々は、『少なくとも片面が黒い一匹のヒツジ』を確認したに過ぎない」と言えないと困るのだ。 そう言えない人は、実際にできた発明品が、 自分が目標としたものと違っても、「製品として売れればそれで良い」と妥協して特許を取る。 論理学が、心理学に妥協しただけだ。 インフレ・ターゲット政策なんて、典型的なプラシーボ効果に思えて仕方がないのである。 プラグマティズムは、理解するけど、 「有用である限り真実」というのを、「売れているから正しい」と解釈してはいけないのである。 現代社会で、何を発明すべきかというと、 経済のプラシーボ効果が無意味に思えるほどの偉大な嘘を、発明したのがこの website である。 数学者なら、誰でも同じ結論に至ると思うが、 最愛の恋人でも殺されない限り、東大数学科のアカウントで、こんな web 告発しないよ。 (*)・・・・・・この辺りの文章の「発明」を、「政治」に置き換えて読んでみよう。 ![]()
小川三四郎探偵事務所
代表取締役社長 岡澤代祐 sanshiro@sastik.com |
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