・恋愛と知能指数


 亜友の知的障碍が、完治したのは、
高校2年の7月に、岡澤からもらった手紙の意味を考え続けたから

 単純に、16歳の女の子にとっては、
国語の教科書より男からの手紙の方が良いだろうし、難度も亜友に合わせた。

 亜友で「人工知能の実験」をした以上、
岡澤は、亜友に理解できないギリギリの線を知っていたし、次の行動も読めた。


 岡澤の、9手先まで読んだ詰め将棋。
「岡澤には、9手先まで読めていた」ことが理解できれば、知能は標準より高い

 そういう非常に傲慢な理屈だが、
亜友が岡澤の7手目まで理解できた頃には、既に知能は標準以上のレベルだった。

 亜友は、9手目の意味を知りたかった。
アマチュア数学者同様に、「岡澤から答えを聞く前に自分で答えを見つけたかった」から。


●織 「数学者が知的障碍児に数学の楽しさを教えたら、知的障碍は治ったが別の病気(数学)を発症した!」
岡澤 「そんな早口言葉みたいなイヤミ言わない」



 一方の岡澤は、高校2年の4月から6月、
亜友の手紙を解読しようと努力したら、それだけで国語の偏差値が60から70へ

 つまり、下線が引かれた亜友の発言の解読には、
国語の偏差値70程度では足りず、80以上必要だったのではないかというわけである。


 <<問>> 下線部「ストーカー」の意味を答えよ

@ 亜友につきまとうこと。
A 他の女と親しくしていること。
B 空き缶回収。
C コソコソ悪いことをすること。


 「いつ偏差値80に届いたの?」というなら、
不思議なことに東京大学入学後、東大模試の現代文が40点中27点になるまで上昇

 上昇の理由には、諸説あるが、
最有力は、センター試験国語200点の●織ちゃんとの、半年間のメールのやり取り説。

 互いの話の食い違いに気付いたとき、
「指示語の指示内容はしっかり把握しましょう」メールが届いた記憶が・・・・・・





 さらに言うと、英語のマーク模試での最高得点も、
何故か亜友とのストーカー騒ぎが一段落し、横須賀先生と喧嘩している最中のもの

 つまり、単語なんか分からなくても英文は読めるのだ。
文章中の最重要ワード「ストーカー」の意味が分からなくても、論争には影響しなかったように。











 ・数学者と数学教育


 岡澤は、算数・数学を教えるのが上手い。
高校2年時の数学部部長時代の、岡ポン講座は既に伝説になっている

 数学部に入部する時点で優秀なのだろうが、
4人の教え子中学生のうち、2人が東京大学に、1人が医学部に進学している。

 それでは、残る1人はどうしたのかというと、
彼女は中学3年時に転校したという噂で、その後どうなったかは良く分からない。



 岡ポン講座の成果は、それだけではなく、
翌年、1人は中学2年で、1人は中学3年で、数学オリンピック予選通過

 他にも、岡ポン講座のオプションとして、
教え子4歳下の女の子と噂になって、東大2年の夏に水族館に行ったなあ・・・・・・。

 随分とダイナミックな展開なのであるが、
実のところ岡澤にとっては、『亜友との痴話喧嘩の、ストレス解消策』に過ぎない



 かつて葉山で、臨時の家庭教師をした。
臨時の1回きりで、片道2時間の道のりは、『病み上がりの遠足感覚』だった

 1ヶ月前まで、重度のうつ病だったのだ。
気晴らしのつもりで、東大家庭教師友の会の募集に応募しただけなのである。

 ところが、数日して再び携帯電話が鳴る。
「分かりやすい」という小5の彼の希望により、アンコールの依頼が来たのだ。















 ・学級崩壊と学校崩壊


 したたかな学級崩壊の常習犯として、
「学校崩壊を実現すれば東大合格」という前例を作った責任くらいは感じている

 自分の経験と照らし合わせて考えると、
黒幕にとって同級の児童は「人質」なのだから、「5000人に影響」という表現は変だ。


 例えば、小学5年の算数の自習時間。
「玲奈ちゃんと2人で智美さんに算数を教える」岡澤を、秋山先生が拒絶したら・・・

 実際、公文学園では横須賀先生が、
「亜友の退学は認めない」という岡澤の方針に楯突いて、学校崩壊の原因を作った。

 二次方程式を解けない大人がいる以上、
小学1年で二次方程式をマスターした7歳の岡澤より、頭の悪い教師もいるわけだから。


 ゆとり教育で、授業内容が減って、
学級崩壊を起こせる知能水準の必要レベルが下がっただけだと思っている

 学級崩壊という形態の抗議方法だが、
いつの時代の国会でも野党は「審議拒否」という学級崩壊で、総理に抗議しているが。

 この場合、人質の同級生役が国民。
担任も、「私は採用試験に合格した」というプライドを捨て、黒幕に妥協しなきゃ。


 「子どもを見る目のある」良い教師は、本格的な黒幕に喧嘩は売らない



 確か米国心理学会では、「測定不能」
IQ 165 以上の人間を本気で怒らせたら、現代科学では対応できず学校崩壊

 4.3 σ範囲、調べると100万人に7人。
「公文国際学園で24学級同時崩壊。1000人の在校生に影響。黒幕は1人」

 ハーメルンの笛吹き。


 「どうして校則は、こんなに複雑なんですか?」
 「一種の知能テストです」














 ・難しい数学の相場


 数学者の感覚には、教育的な配慮はなく、
教授が、「4年生の皆さんには多分理解できないだろうと思います」と前置きする

 他の学問と違い、数学は難しいから、
「どんなに分かり易く教えても、理解できない奴には理解できない」のが相場なのだ。

 「理解できた」ハードルも高くて、
どんな質問にも即答できなければ、「理解できた」とは認めてもらえない数学科。



 数学愛好家の間では知られた話。
三角形の面積の1/2は方眼紙を切って説明できるのに、三角すいでは習いません

 「底面 × 高さ × 1/3」

@ この公式を習う小学6年算数の、授業時間が足りないから。

A 紙を切って簡単に作れる三角形と違い、立体図形の工作は難しいから。

B 小学6年にもなると、紙を切って繋げたくらいでは納得しないから。

C 特別な場合を除けば絶対に上手くいかないことが、数学的に証明済みだから



 岡澤が、特別な場合を黒板に書いたら、
篠ちゃんと坪ちゃんが方眼紙で実際に作って、組み合わせてくれた6年4組の記憶

 証明を知ったのは、中学3年の時で、
だから高校2年時の岡ポン講座では、平気で「小学校算数の微妙な嘘」を暴いてしまう。

 これは別に、新入生のための配慮でない。
明日の準備をするほどの余裕もなかったから、予習なしで話せる話を話しただけだ















 ・数学教育特有の事情


 単純な話、亜友にあれだけ責められて、
せめて新入生にだけでも笑顔を見せてもらいたくて、難しい話を避けたわけである

 数学教育で感謝されたいなんて幻想で、
人前であんな難しい話をしたら、「恨まれてこそで、感謝されるなんて有り得ない」のだ。

 だから数学は、本質的に心理学である。
目の前の生徒の表情が曇ったら、「恨まれないように話を変える」のが鉄則なのである。



 逃げてばかりじゃ教育にならない?
いや、その気になれば大学入試問題は、小学校の算数で説明できるから大丈夫

 小数や分数の計算が苦手な相手には、
「なら小数と分数、どっちなら我慢できる?」という質問から、始める度胸がなくちゃ。

 九九が全部言えない子が相手なら、
「なら、5×5までなら全部言えるか?」で妥協して、九九全部に代用する知識も欲しい。



 「できるの?」という話だが、
西欧諸国では5×5の段までしか覚えないけど、問題が起きたという話は聞かない

 そう言えば、高校1年の数オリ予選。
先輩が対数関数のグラフで説明した問題を、岡澤が「饅頭の箱」で代用したら後輩に大好評。

 女の子に、数学を教えても嫌われない。
その実力で数学以外の話をすれば、たいていの女の子から感心される話術になるわけだ。





 ところで、公文式数学で病気になるかの話。
●織 「数学教育なんて、『数学者という病人』を生み出すだけじゃないですか!」

 仕事もせず、遊んで暮らしているNEET。
●織 「NEETに比べたら、探偵事務所を作る数学者の方がよっぽど病気です!」


 ところで、公文式数学で病気になるかの話。
●美 「数学教育で数学者が育ったら、日本の自殺率が高くなるじゃないですか!」

 仕事もせず、遊んで暮らしているNEET。
●美 「自分で作った問題に苦しんで自殺する数学者より、健全じゃないですか!」


 数学者の女は、容赦ない。













 ・数学者と障碍児教育


 IQが150を超える東大数学科になると、
小学校入学後、繰り上がりを間違える同級生に戸惑う経験を持つ者が多い

 要するに、はっきり言ってしまうと、
「6歳にもなって繰り上がりを間違えるなんて、何の茶番だろう」という話である。

 自分から披露する数学者は少ないが、
かつて数学科懇親会で、偶然出てきたこの話題で盛り上がった記憶が残っている。



 ふと思い出したので追記すると、
数学者の秋山仁氏は、小学校入学時に知的障碍扱いされ試験を受けたという

 秋山氏は、自虐ネタとして披露していたが、
「『コップに水を入れろ』なんて裏があるに決まっている」と、トポロジーを考えたらしい。

 その結果、コップを床に叩きつけた。
これは単純に、IQ150 を超えると、同級生の思考が理解できなくなる典型例だ。


 ぼく自身、小学3年の春を過ぎる頃に、
「同級生は、岡澤君と違って頭が悪いんだよ」という衝撃の事実を友人に教わる





 岡澤は、小学5年の算数の自習中、
何とか普通学級にきた智美さんに、一生懸命算数を教えていたのである

 先生も、「ヌカに釘」と言わんばかり。
ところが彼女の成績は、すくすく伸び始めて、ついに3段階評価で「B」が付いた。

 岡澤も、四谷大塚の正会員だった。
平日教室には行かず、算数の自習では女友達に算数を教え、偏差値70を維持。



 確かに、四谷大塚の日曜テストでは、
良い成績を取れば、家族は褒めてくれるし、成績が下がれば悲しい顔をする

 だが、自習時間の智美さんだって、
岡澤の説明が良ければ納得した顔をするし、説明が悪ければ納得できない顔をする。

 それで、彼女の顔が少しでも曇ると、
横で見ている玲奈ちゃんに、「ダイコンの教え方は強引なのよ!」と攻撃される。



 すると問題は、塾と学校の優先順位だが、
岡澤の11年間の経験からいって、『親の言葉は信用しない方が良い』という













 ・亜友との遭遇


 智美さんなら自習時間で何とかなったが、
中学2年の4月に遭遇した女の子は、数学を教えてどうにかなる相手でなかった

 授業中に後ろを振り向いてくる。
将来の夢は「お菓子の家に住むこと」だと、土地の面積を求める以前の問題である。

 ただ、智美さんとの共通点で、
岡澤の説明が良ければ納得した顔をしたし、説明が悪ければ納得できない顔をした。



 智美さんとの相似関係で言うと、
良い顔と悪い顔の区別がつく相手なら、理論的には数学教育は可能なのである

 そう思っていたら、実は医者も同意見で、
「知能が回復する可能性はあるが、治療は失敗しました」という話だと聞いた16歳。

 良い顔と悪い顔の区別から言うと、
「0と1の区別」で動いているコンピュータと同じ理論で、数学教育は説明がつくはず。


 「女の子の心は数学ほど単純じゃない!」


 そんな忠告をくれた女の子もいたが、
たぶん君のお父さんは、君の心が足し算より簡単な頃から君を手に抱いているよ

 そう考えると、この理論は的を射ているが、
こういう強引なことを平気で言うから、玲奈ちゃんにも引っぱたかれるんだろうなあ。















 ・亜友の東海大受験


 高校生活最後の1年間で、亜友の知能が回復した。
並の予備校は、カウンセリング治療の成果には足下にも及ばない現実

 東海大学の合格者リストに、二人の名前が並んだ。
東海大学は岡澤・父の出身校で、亜友が先に岡澤の受験に気づいたのだろう。

 中学生時代の亜友の成績というか、授業態度は、
「だって亜友ちゃん、偏差値2しかないじゃない。大学なんて無理!」(*)



 亜友の知能回復は、厚労省への攻撃材料。
何人もの医者が失敗した知的障害の治療を、1度のチャンスで成功させた

 数学者の視点で亜友の知的障害を論じると、
「ハードウェアには問題がなかったから、OSを再インストールしただけ」

 高い保険料が、全く役に立たなかった実例。
ついでに言うと、文部科学省が設置した医科大学の教育も、役に立たなかった。



 確かに、「医者選びも寿命のうち」とは言う。
だが、「現代には優秀な医者も官僚もいない」という結論は、間違っている

 問題の本質は、亜友との「結婚」だと思う。
岡澤は、自分が気に入った女の子しか、治療の対象として選んでいないから。

 要するに、ハードウェアの問題なのである。
医者でない岡澤は、ハードウェアに問題がありそうな女の子には、手を出さない。



(*)・・・・・・2004年早春に流行ったネタ。「無理無理無理無理カタツムリっ!」と続く。











 ・日常の三段論法


 上で、九九は5×5までで足りると書いたが、
実は三段論法も「使わずに済む」ものの1つであり、むしろプロは使わない

 数学者は、背理法を好む傾向にある。
イメージとしては、疑って疑って疑いきれないものを、真実として追究する感じ。

 そう、デカルトは座標を発明した数学者。
近代的自我は、「背理法を用いても反証できないもの」として、コギト・エルゴ・スム。



 日常生活では、背理法はあまり使わない。
背理法は、「当たり前のことを厳密に難しく表現するだけ」という印象がある

 つまり、ひと言「有り得ない」で済む話を、
「もしも仮定が真実なら」で始まり、多くの場合「よって仮定は有り得ない」で終わる。

 これは、かなり無駄な作業である。
だが、「有り得ない」と思っていたものの中に真実が紛れ込んでいることもある。



 三段論法自体は正しいのだが、
検証もせず「有り得ない」で済ませて、そのまま三段論法を使うから良くない

 三段論法が、大衆受けする理由は、
仮定が間違っていても、間違っていることに気付かないまま結論が出てくるからか。

 なら、本当の数学を教えろと言われても、
中学の授業で、「皆さんには理解できないと思いますが」をやるわけにはいかない。





















 ・大学数学の専門性


 中学時代の岡澤が、数学の分野で研究していた問題。
現代の大学入試問題の大部分は、小学校の算数を使えば答えを出せるのだ

 古代の数学史を学べば、これが当然の結果と分かる。
古代ギリシャのアルキメデスは、紀元前300年頃には今の大学入試問題を解いている。

 オーストラリアへの修学旅行で、数学の授業も見学。
「簡単すぎる」と馬鹿にした同級生が多かったが、日本の高校数学は別に偉くない。



 これを実践するには非常に高い能力が必要だが、
大学入試の模試の答案に、小学校の算数だけで解答すると、点がもらえない

 予備校講師の実力だと、この答案を採点できない。
だが驚くことに、実際の大学入試にこの答案を提出すると、たいてい満点がつく。

 さもなければ、岡澤は全ての大学で不合格だ。
「俺の答案を採点できない教授のいる大学なら行く必要ない」主義で、答案を書く。



 いささか技巧的すぎる中学受験の算数である。
昔愛読した仲田紀夫さんの話だと、大正時代に流行した難問教育の名残という

 大正時代の教育者の趣味に、付き合っているだけ。
塾の算数が小学校の算数より高度かというと、教科書の著者の趣味の違いに過ぎない。

 現代の教育ママには、この程度の知識もない。
自分がその程度の教養なのに、子どもに大量暗記を課すのはどうかと思うのだけれど。



 ただ、現代の中学入試は決して否定しない。
学歴偏重のご時世では、教養を身につける機会は中学受験くらいのものだから

 もし、歴史を正しく学んでいるのならば、
大学入試の数学は、二度の世界大戦によって数学が大衆化された結果だと分かる。

 ちなみに、2009年現在の岡澤の立ち位置は、
ポエニ戦争中のアルキメデスの立ち位置と、本質的に変わらない気もするのだ。













 ・具体的に岡澤の中高時代


 岡澤が考案した、かなり変わった英語の勉強法。
教科書を計算用紙に見立てて、英語の授業中は英語の教科書を計算用紙にする

 現在、授業でどの単元を学習しているか。
数式で真っ黒になっているページは、既に授業で習った範囲であることが一目瞭然。

 数学では、自分が不動の1位なのである。
英語まで良い成績を取ったら周りが可哀相だとかいう理由で、授業は聞かなかった。



 必ずしも学習法とは関係のある話題ではないが、
25個の並列選択肢で25個の答えを埋める高校古典の単語テストで、満点を取った

 授業すら聞かず、クラスで2人だけの満点だった。
記憶を頼りに確率を計算して、得点が最大になるよう埋めたら満点で褒められたのだ。

 こういう奇妙な幸運は、わりと時々あった。
この程度の幸運を友だちに自慢しているようでは、博徒や詐欺師にはならない方が良い。



 専門にしていた数学は、同級生とは比較できない。
数学の授業中の岡澤の発言が、時々、教室中の空気を凍り付かせた(*)

 中2の時に、亜友と遊んでいた話は別に書いた。
授業中は亜友と遊んでいて、試験中の多くを寝過ごしてそれでも満点を取った武勇伝。

 プロと素人の差が歴然とした授業態度だった。
もっとも、数学の授業を真面目に聞いていた数学者には、ぼくは会ったことがない。



 最後にもう一つ、数学の授業エピソード。
中学3年の頃に、東南アジア諸国からの留学生が、数学の授業の見学をした

 だが、日本語での授業をひたすら眺めている。
次の授業で、岡澤は数学書を閉じ席を移動して、数学用語ならと英訳して解説する。

 普段は我が道の岡澤が、留学生の賞賛の輪に。
翌年も留学に来た数学が得意なフィリピンの女の子パトリシア、再会に花咲く2人。



(*)・・・・・・綿貫先生の口述試験に3秒で即答したり、微分の定義を問われ「εδですか?」と反問したり。













−つまり、「女遊びに必要なことは、全て数学の授業中に覚えた」わけである−


 さらに、偉大なことに気がついた。
数学の授業中に仲良くなった女の子たちとの間に、たくさんの子どもを作るのだ

 その子たちを集めて、学校を作れば、
私利私欲ながらも「社会に貢献している」わけで、世間の人たちからの反発も防げる。

 自分の経験から言うと、
7歳にもなれば2歳児の面倒を見ながら、二次方程式をマスターする奴も出てくるはず。


 「ハムーヌ国際学園」
設立の動機:性教育と数学教育の融和を目指す


 14歳の頃、学校作りを夢見たことがあったな・・・。

岡澤 「家庭って、位相幾何学のようなものだと思うんだ」
●織 「『穴の数で分類する』ってことですか?」
岡澤 「誰が上手いこと言えって言った」

 ただし、問題があるとすると、
文科省は、18歳未満の一般生徒の入学を許可してくれないかもしれない










  次頁 「祝 円周率3.14」









 ・数学の授業中に学ぶ


 公文学園の後輩の反応を見るまでもなく、
岡澤の website を、全て理解できる人は、東京大学に落ちたりしないと思う

 なら、この website は教科書になるかというと、
内容は偏りすぎているし、18歳未満の閲覧が禁止されそうな話題の方が多い。



 つまり、自然・社会科学的に真実であっても、
18歳未満に教えてやるのは、教育上好ましくない事実というのが意外に多い

 すると、それを学べるのが大学であるわけで、
「大学はレジャーランドで構わないと思う」という、瀬地山先生の言葉に繋がる。



 14歳から六法に親しむなんて例外中の例外で、
教育上は、民事紛争にならないような「協調性」を、育ててやるべきなのだ

 だが、東大法学部は偏差値ピラミッドの頂点。
教育で完成した人格だけが、教育に反する趣旨の学部に入学するのは何故だろう。



 要するに、基本を知らずに例外を知るべきでない。
よほど数学力を持て余していない限り、授業中に女の子と遊んではいけない

 理屈ではそうなるが、これは単純に差別である
諸外国には飛び級の制度もあるわけだが、ぼくは、飛び級制度には賛成しない。





 さて、この website は、18歳未満も見ている。
「よい子は絶対に真似してはいけない」と、教師が盛んに警告を発しそうだ

 だって、18歳未満も簡単に真似できるはず。
「母校の悪口」から始まっている以上、学校裏サイトに比べ文化的とも言えない。



 だから、中高生は、絶対に真似すると思う。
文科省は、この website を、フィルタリングの対象にするしかないと思う

 大人社会を、18歳未満に見せてはいけない。
岡澤が何をやったのか知りたければ、一生懸命勉強して東京大学に来てください。





 すると、岡澤に子どもが生まれた場合、
子どもは、18歳になるまで、自分の父親の仕事を噂でしか知ることができない

 ああ、なんて教育的な環境だろう。
岡澤本人が、自分の父親が誰なのか最終的に結論したのは、25歳の気もするが。



 むしろ、プラトンの国家像でいくと、
「自分の父親が誰であるか」は、18歳未満が知るべきでない有害情報なのか?