亜友と人工知能


 将来を約束した亜友に、「私を好きにしていいよ」と言われ、

その数学者は知的障害の彼女を利用して、人工知能理論の臨床実験を行った。



□0 はじめに

 レイモンド=スマリヤン博士の書いた本で、 日本語版の、「決定不能の論理パズル」(白揚社 1990)がある。



 知能とは、自己意識の理論である。そのことは認識していたし、理解しているつもりだった。 ところが、筆者には下記文中で「一人称モデル」よりも「三人称モデル」を重視しているように、 他者を理解するための自己意識という発想が、どうも馴染んでこないのだった。 自己の内部無矛盾性を完成させてから製品を出荷する状況の、現代教育批判にも繋がっている。
 ところが、他者をより正しく理解するためには、強い自己意識が必要なのだと気付かされた。 単純に、自分の目を信じられなくなったら他者を理解できないのだ。 スマリヤン博士の形式に従うと、「あなたは私を騎士だとは思わないでしょう」などと言われて、 「何かの聞き間違いだ」と自分の耳を否定してしまうようでは、他者を理解できるはずがない。

 もっとも、今の発言はゲーデル文と同値で、この矛盾を克服させようと、 スマリヤン博士の同書でも1型、2型、3型と、徐々に強くなってゆく自己意識が述べられている。 ゲーデル文の真偽を判定し、真実を手に入れることは神にしか許されないことであり、 我々はその真偽の判定を放棄して信仰によるほかないというのが当時中学3年の筆者による結論であった。
 哲学における神の存在証明とは、神の存在と同値であるゲーデル文の存在証明と同値だと筆者は考えており、 逆に言うと、神に関する以外の全ての命題は、人間によって証明可能だという信念を持っている。 高校2年の筆者は、それを実験的に確かめるべく、亜友(仮名)が怒っている理由を論理学的に解き明かそうとし、 8年かけてそれを解き明かしただけである。

 これは、日本語話者が時間をかけて解読すれば、原理的には誰でも解き明かせるはずである。 ところが実際には、時間の経過とともに、「何かの聞き間違いだったかも知れない」 「彼女の表情は錯覚だったのかもしれない」と、崩れてゆく。 「記憶の風化」と呼ばれる現象だが、自己意識の弱さ故に自分を疑い始めただけである。 年とともに、自分を信じることのできる時間は減少してゆく。
 どうにも、中島敦の「山月記」を思い出させる話の流れになったが、 人間は徐々に虎になってゆくのではなく、徐々にタンパク質の塊に戻ってゆくというだけである。 その証拠に、筆者の体感時間は、物心ついた頃から大きな変化はない。 強いて言えば、最愛の恋人が自殺した高校1年時は、徐々に時間の闇に飲み込まれてゆく感覚があった。 その「時間の矢」に抗して、筆者は記憶喪失したのである。



 この理論の本質は、あまりに苛酷な運命に曝され続けたため、理論武装した自己愛だと思う。








   □1 一人称モデル
   □2 騎士と奇人の島
   □3 亜友と人工知能
   □4 思考パラメータ
   □5 記号の解像度
   □6 思考の波動関数
   □7 論理の普遍性
   □8 対称性の破れ
   □9 高速の思考回路
   □10 納得と回収作業
   □11 論理的宇宙観
   □12 振動数と知能指数
   □13 思考速度と桁落ち





□1 一人称モデル

 理論の概要は、至って単純である。 「人間の心の中も、スマリヤン式の記号論理で記述できる」だけ。 そして、この理論はこの記述方法を理論化しただけに過ぎない。 スマリヤン博士の著書においては、推論者は1型、2型、3型、4型、5型、G型などに分類され、 もしかすると、ヒトも発達心理学的にそのような過程を経て成長するのかもしれない。 しかし、ここではそれを仮定しない。
 筆者は、最初、「自己意識の論理学」を考えていた。 実際、P(P(k))というのは、自己意識に関する信念である。 確かに、スマリヤン博士の著書の理論は、「自己の内部の無矛盾性」に重点を置いている。 すると、スマリヤン博士の同著書の目的は、人間心理とは一線を画す。 というのも、人間は「自己の内部の無矛盾性」に沿って成長するわけではなく、 自己の内部の矛盾に気付く度に、成長するからである。

 人工知能を研究する際には、「内部の無矛盾性」は重要である。 動作の途中で心理的葛藤を起こし、思考を停止してしまうのでは人工知能と言えない。 だから、他者の存在を仮定しない「自己意識の論理学」の中で完成度を高め、 完成された段階で初めて、他のマシンと触れ合うコミュニケーションを開始させる。 人工知能の研究は、然るべく、その内部無矛盾性の部分に特化される。
 スマリヤン博士の同著書は、後半でこそ、「自己意識の論理学」に特化されているが、 前半は「騎士と奇人の島」において、他者の発言の真偽を判定することが中心となっている。 以後、「自己意識の論理学」に特化されたモデルを「一人称モデル」と呼ぶことにしよう。 一人称モデルにおいて、命題は自己意識を問い、著名なゲーデル文も一人称モデルの考察の対象である。

 一人称モデルにおける人工知能理論は、 自己の無矛盾性に関する問題点を可能な限り克服した正確な知能の完成を目的とするだろう。 そして、それは十分に複雑な研究対象である。 だが、これは「現在の人間の心の中」を対象とする、本稿の趣旨には沿わない。 というのも、一般的な成人は、人工知能に匹敵する自己意識を持っているとは思えないから。
 本稿の目的は決して現代教育批判ではないが、ここまでの仮定において、 発達心理学に基づく現代教育とは「一人称モデル」に過ぎないことが見てとれる。 人生における様々な「自己内部の無矛盾性の問題(=葛藤)」の分類と、その解決方法を習得してから成人する様は、 戦場において一瞬の葛藤が命取りになりかねない兵士の運命にも似ている資本主義の運命。





□2 騎士と奇人の島

 スマリヤン博士の同著書に登場する「騎士と奇人の島」は、三人称モデルである。 「三人称モデル」と呼ぶ理由は、一人称モデルとの対比で察して欲しい。 その中間に、二人称モデルが存在するわけだが、これは同著書におけるウーナ(Oona)の存在である。 騎士であるか奇人であるか知れた存在との対話を前提としたものである。
 二人称モデルの要は、「有限時間内に対話者が騎士か奇人か、知ることが出来るか」であり、 相手が騎士であるか奇人であるか知れてしまった後は、数学的には一人称モデルと変わらないはず。 ところが、現実の恋人を観察しても一人称モデルには見えない。 現実には、「『騎士』だと思っていた人がただの奇人だった」ことも、 「奇人だと思っていたら、『騎士』だった」ことも良くあるから。

 我々が暮らす現実の世界は、三人称モデルで、「騎士と奇人の島」は、善悪二元論のモデルである。 また、二人称モデルは、「吉本隆明の対幻想モデル」と呼ぶこともでき、 発達心理学モデルである一人称モデルと合わせれば、文系研究者の研究対象をほぼ網羅すると言っても良い。 これは、人間が人工知能を超えないことを示唆しているのかもしれない。
 一人称モデルを研究する際には、スマリヤン博士の用語を使えばよい。 また、人工知能理論の研究は多数あるわけだが、他の用語を調べたことは特にない。 スマリヤン博士の用語は、Xを命題とするときP(X)で、その証明可能性を表す。 その他の記号は、一般的な命題論理の記号と共通するが、同書では¬の代わりに〜を使う。 本稿では、¬を使うことにする。

 二人称モデルの場合、自分自身をA、相手をBで表すなら、 自らの内部における証明可能性をP(X)で表し(PはProbableの頭文字だろう)、 相手の内部における証明可能性をB⊃P(X)と書くのが本来的である。 ところが、これでは煩雑なので、P(X)の代わりにA(X)、B⊃P(X)の代わりにB(X)と書いた方が楽である。 これは、三人称モデルについても言える。
 本稿では、そもそも記号は多用しないつもりだが、原則として略記しない方針である。 だが、あまりに煩雑で、誤解のおそれがないときは、略記を明言して略記する。 徐々に書いてゆくつもりだが、三人称モデルの要は、この略記法にあると思う。 人工知能が一人称モデルで動いている内は、正規の表記法でも良いが、 コミュニケーションを考える段階に至っては、情報量の理論を無視できなくなるからである。






□3 亜友と人工知能

 結論から先に述べよう。 世の中で信じられている命題の、95%は偽である。 世の中の複雑さの原因は、大部分の偽の命題から、真の命題を選び取るのが難しいからである。 法律も重畳的な適用が避けられるように、世間一般で「正しい」と思われている推論も、 3回も適用すれば真っ赤な嘘が得られるわけである。 これは、一人称モデルでは考えられないことである。
 これから述べる亜友を見ていて感じたことでもあるのだが、 個々の命題の真偽の判定は、統計的手段に依らざるを得ない。 統計的手段によって、個々の命題の真偽を判定しようというのが現代科学のパラダイムである。 数学や哲学といった純粋な思考は、 理論全体の調和を優先することにより、それぞれの命題の真偽判定を修正することにあると思う。

 亜友について具体的に述べれば、 中学2年生の教室で筆者と出席番号が前後した、心理的原因による知的障碍があった女の子のことである。 当時の彼女の知能指数は、筆者の推定で42〜47程度で、また言語障碍はなかった。 5歳児の知能をもった13歳が、7歳児の知能をもった16歳に成長するまで、筆者とは良く話した。 発達心理学的にも、興味あるモデルである。
 中学3年の1年間、筆者は亜友とは距離をおいて、スマリヤン博士の同著書を熟読していた。 そして知的障碍の亜友のことを思い出したのだが、実のところ再会はあまり期待できなかった。 彼女が高校に進学できない可能性は高かったし、 理系クラスに進学する筆者は、彼女と同じクラスになる確率は0に近かった。 実際、同じクラスになったのは中学2年の1年間だけである。

 ところが、運命とはよくしたもので、 人工知能の理論を研究していた筆者のもとに亜友が戻ってきた。 彼女は1年間にわたり、強制わいせつとも区別のつかない色仕掛けで筆者に迫り、 16歳の誕生日になって、ついに筆者に求婚した。 現在では、この展開を簡潔に説明する事実関係が判明しているが、統計的には処理できそうにない。 統計は、こういう場面では弱い。
 この、強制わいせつとも区別つかない求婚に際して、 筆者は自らの人工知能理論を用いて彼女の障碍を観察し、あわよくば治療しようと考えた。 だが倫理的問題として、観察記録は残さないことと、 治療に失敗したら責任を取って結婚するという二つの方針を定めた。 だから観察記録としては残っていないが、彼女の知能は発達を遂げた。 なお、治療が成功した場合も、婚約は解消されないらしい。






□4 思考パラメータ

 複雑な、P(X)式の論理体系はさておいて、通常の論理学を考えると、 ∪基本形と呼ばれるものだったか、 「全ての命題はX≡R&S&T&・・・型の命題X、Y、Z、W等を用いて、 X∪Y∪Z∪W∪・・・と表せる」という定理がある。 文献をあたって、正確なことを書けばよいのであるが、あいにく手元に本がない。 この分解を、∪基本形と呼ぶことにして、とりあえず話を進める。
 この∪の合成に出てくる命題X、Y、Z、W等は、項と呼ぶ(ことにする)。 これに対し、R、S、Tをパラメータと呼ぶことにする。 というのは、竹内外史先生の「線形論理入門」の記号◎(正確には○でなく+が入る)を用いて、 R、S、Tを◎の連結で表せたら美しいだろうなという希望的観測があるからである。 つまりR、S、Tを、アルキメデス的な性質を持つ命題と考えたいのである。

 避けたいことは、まず、項の見落としである。 さる論理クイズの本に、「生年月日が同じ姉妹だが、双子ではない」という問題があった。 その本の正解は、「実は三つ子だった(『大地と大地』?)」なのだが、筆者は別の答えを出した。 「異母姉妹だから問題ない」というのが筆者の答えだが、著者はこの項を見落としていたようだ。 いかにも筆者らしい答えなのだが・・・。
 筆者は、項の見落としを避けるために、 「言語による世界の区切り方を疑う」という思考方法を、20歳の頃に確立した。 つまり、L≡X∪Yのような状態が生じたときは、Xを定めるパラメータを変化させることにより、 強引にL≡X≡R&S&T&・・・型の式に作りかえてしまい、∪の使用を避けるのである。 この式変形により、実は見落としていた第3の項に気付くことも良くある。

 それで、この思考方法に正当性があるのかというと、 この思考法の発見から5年が経ち、「LKの基本定理」の存在を知ったのである。 カット、つまり、いわゆる三段論法の不要性について述べた定理である。 ところが、上記の思考方法について考えてもらいたい。 論理和である∪の使用を避けることにより、三段論法の必要性が見つからない。 「LKの基本定理」は当然だ。
 つまるところ、筆者の思考方法というのは単純に、「LKの基本定理」に沿った思考方法なのである。 「LKの基本定理」の成立が自明となるようにパラメータを動かして、 推論が自明となるように特殊化された言語体系と言っても良い。 これは、詩人の想像力と同じように、言語体系の所与性を無視すれば得られる推論方法である。 理論的に、得られる言語体系である。




□5 記号の解像度

 まず、「LKの基本定理」について考えてもらいたい。 初めて聞くには、三段論法を使わない思考方法というのが、想像できないに違いない。 実際には、必要条件と十分条件が互いに打ち消しあうような方法で、 三段論法を使わずして仮定と結論に変化を与え、命題を証明しうる。 そして、項の見落としを避ける上では、この方法による証明が容易に導かれた。
 さて、必要条件と十分条件が互いに打ち消しあう。 これは、パターン・マッチングの原理に他ならない。 ということは、人間は、本来的には、パターン・マッチングの能力だけで思考できる。 つまり、「三段論法」などというものは、後世の人が勝手に命名した、本質的でない推論能力である。 だが、三段論法支持者からも有力な反論がある。 前提と結論が打ち消しあう思考方法は、無駄が多いのじゃないかと。

 この意見には再反論が可能であり、 「そもそも人間の思考というものは、心理学的な能力の過度な浪費である」とも言える。 筆者は、この再反論を支持しており、人間の思考は、たいていの場合は能力の浪費に過ぎないと思う。 ところが稀に、費やした能力を補ってあまりある結果を導くことがある。 だから、人間の思考は進化した。しかし、たいていの場合は能力の浪費だ。
 逆に言うと古代、思考というものは、浪費できるほどに知能が発達した者の暇つぶしだった。 ところが、三段論法を使うと、より知能が低い者でも論理的思考をできることが発見された。 その結果、誰もが論理的思考をするようになったが、三段論法は誤りが多すぎた。 そのうちに「悪貨が良貨を駆逐する」状況となり、誤った言説が横行闊歩するようになった。 それが現代文明だろう。

 上記の通り、思考が本質的にパターン・マッチングで記述できるなら、 人間の思考回路というものが、重ね合わせの原理が成り立つ定常波だという考えは、受け入れられるだろう。 すると、知能指数というのは本質的に、この定常波をフーリエ展開する際の解像度ではないかとも疑われる。 つまり人間は、自らの知能指数を超える振動数の波を、読み取れないのである。
 この三段論法を使わない思考方法だが、IQ150程度が境界じゃないかと思う。 三段論法を用いて思考する一般人にとって、IQ150を超える非三段論法の論理は理解できない。 彼らは、単純なパターン・マッチングをしているつもりでも、一般人にその能力は備わっていない。 IQ140以上の人間が社会的に活躍しない理由も、そこにあるのじゃないだろうか。




□6 思考の波動関数

 人間の思考回路は、定常波じゃないかと書いた。 実際の感覚神経と併せて考えると、外界からのインプットは進行波だと考えられる。 マクロな物理学における弦の振動も、進行波の合成により定常波が得られるのだから自然な発想である。 つまり、「時間の矢」に沿って進行する現象が知覚神経を通じて脳内に流れ込み、 それが上手い具合に定常波を形成した場合に、記憶として定着する。
 超ひも理論ではないが、弦の振動である定常波が「思考回路の本質」なのかもしれない。 しかし、筆者はむしろ、外界から流れてきた進行波を、「切り取った」点に着目する。 こう考えると、人間が論理と呼ぶものは、実際には時間要素が含まれてしまうのである。 「それは論理学ではない」 のだが、時間要素を含まない純粋な論理を扱える人間が、どれほどいるものか。

 ことさらに文系科目を攻撃しているように聞こえるかも知れないが、 例えば経済学など、論理的因果関係と時間的前後関係の混同が甚だしい。 あの学問は、そもそも、時間的因果関係を記述しただけじゃないのか。 「論理とは三段論法のことだ」と考えている人には経済学でも良いかもしれないが、 筆者の目で見ると論理学的に誤差が大きすぎて正確性に欠ける。
 これは、多くの数学者に賛同してもらえるような気がするが、 通常の数学者は、そんなことは指摘しない。 経済学者に対してそんなことを言えば、研究予算を減らされてしまうからである。 数学の世界においては、たとえ世界経済が破綻しようと、 一度完成した証明が無効になることは有り得ないのである。 単純に、世界経済が破綻する前日までに、証明を完成させれば満足なのである。

 経済学者の悪口はさておき、これで知能指数の本質にさらに鋭く切り込めた。 先の仮説、「人間は、自らの知能指数を超える振動数の波を、読み取れない」を補足する。 知能指数が低い、つまり記憶回路の振動数が低いと、命題はより多くの時間要素を含むのである。 つまり、知能指数が低ければ低いほど、現象を細分化して捉えることができない。
 先に超ひも理論が出てきたが、理論物理学の世界では、命題の真偽には時間的要素が含まれる。 命題の真偽を判定するための、「観測時間」の問題を、避けて通ることができないから。 すると、そもそも、数学的対象を離れた一見論理的な問題は、全て時間的因果関係の問題である。 数学は、現実の問題を考察する時には、変分原理を用い、確かに論理学的な推論はしない。




□7 論理の普遍性

 なら数学者が用いている論理に普遍性があるかと問われると、自明ではない。 我々が用いている論理は、二項演算に過ぎないからである。 通常は5つの記号(&、∪、⊃、≡、¬)が用いられている。 筆者は、スマリヤン氏の本の流儀で、普段は¬よりも〜を使う。 この5つの記号は、シェファー・ストローク(記号|)を用いれば1つで足りることが知られている。 両否定(記号↓)でも良い。
 シェファー・ストロークは、普遍性故に意味を捉えにくい記号である。 この記号は、A|Bが、AもBも真であるときに限り偽になる機械的な記号なのだ。 筆者の現在の意味づけだと、A|Bは「A&Bの矛盾可能性」ということである。 A|(A|A)は、「Aは、自身内部の矛盾可能性とは当然に矛盾する」から真である。 A|(B|B)は、「Bの矛盾可能性はAと両立しない」のだから「AならばB」。

 では、A|Bを「A&Bの矛盾可能性」と意味づけしよう。 A|Aを「A内部の矛盾可能性」と呼ぶ以上、命題内部の構造に踏み込む論理記号である。 このA|B時、AとBの矛盾しない部分(内部矛盾も含まない絶対的真の部分)は、無視される。 さて、この意味づけを見て、読者は何を思い浮かべるだろうか。 筆者は、新生児が「数」を認識できるかという、発達心理学の実験を考えた。
 新生児は、目の前で不思議な出来事が起きると、より長時間かけて注視するそうである。 人間はそもそも、「内心と外界の矛盾可能性」にストレスを感じる生き物なのである。 すると、A|Bの値の「1か0」は、人間が心理的に感じるストレス値に過ぎない。 全ての論理式がシェファー・ストロークで表現できるという事実は、 人間の思考回路がそもそも、ストレス最小化のために作られているだけだろう。

 筆者がシェファー・ストロークを好む理由は、 記号が一種類なので、トーナメント表のように表記できるからである。 何が言いたいか。人間の脳神経の、ニューロンとシナプスとの図式である。 それでも、人間の神経にもアナログ回路は組み込まれている。 一方で物理学では、 フェルミ粒子はシェファー・ストロークで区切ることができるが、ボース粒子は出来ない。 確かに、論理には普遍性がありそうである。
 つまり、論理には普遍性があり、それ故にヒトの脳神経は、このように進化した。 だが、どんな工夫を凝らしても、命題から時間要素を取り除くことはできなかった。 スマリヤン博士の同書の、「ω−不整合性」の話題と繋がる。 そしてコンピュータも、この問題を解決することはないだろう。 ω−不整合性は、物理学において、「光速度を超えることはできない」原理に対応するから。




□8 対称性の破れ

 シェファー・ストロークが、ヒトの神経細胞のモデルとなっていると仮定すると、 人間の知能発達は、外界から受けるストレス値を最小化するような条件下での、対称性の破れの発現とも言える。 物理学における「対称性の破れ」が、日常的なイメージの「対称性の破れ」と、 正反対の意味を持っていることに注意して欲しい。 整頓されると、対称性が破れたという。
 この仮定に基づくと、論理とは「対称性の破れ」なのだということになる。 「説明のつかない、不自然な状態」にストレスを感じるという条件下において変分問題を解くと、 「自己や宇宙の存在に説明を与える」方向に、脳神経系は進化するはずである。 すると、この理論の最初の仮定は誤りかもしれない。 人間の心理状態は、陽関数的には表現できそうもないから。

 随分と前の節で、命題を、項とパラメータに分割したことを思い出して欲しい。 パラメータは、「線形論理」の方法で、アルキメデス的な性質を持つかもしれないと書いた。 すると、解析学的な手法で、離散的に散在する命題を連続的に、完備化できるだろう。 これでは、人間心理の動きは、微分方程式系の解の摂動と何ら大差ない。 人間心理は、複素関数体と同型なのかもしれない。
 すると一人称モデル、二人称モデルは、解析学的に、厳密に解決できるはず。 ところが、三人称モデルは、絶望的であることが解析学的に既に証明されている。 二人の関係に、第三者が介入すると、結論は予測不能になるのである。 任意の時点において進む方向を決定することはできるが、最終的な結論は最後まで見えない。 単純な話だ。

 それでは、再び「LKの基本定理」に戻る。 三段論法は、あくまで、この微分方程式の解曲線の、接線を描いているに過ぎないのじゃないか。 三段論法における「大前提」と「小前提」が、位置ベクトルと運動量ベクトルに該当するのである。 知能指数が高くなるにつれ、測定場所が増え、三段論法の精度が高まる。 しかし、所詮は三段論法の域を超えない。
 先の仮説は、「IQ150付近で思考回路の相転移が起きるのじゃないか」と言い換えられる。 それ未満の知能だと、「LKの基本定理」の存在は、思考回路にとってストレスになる。 また、IQ50付近でも固体相から液体相への、相転移が考えられる。 IQ42〜47と推定される亜友は、三段論法そのものを排除している感があった。 つまり、当時の亜友と筆者は、二人とも三段論法を使っていなかったのだ。




□9 高速の思考回路

 これで、筆者が実験中に感じた疑問を、説明することができる。 「P(X)とP(P(X))を分けるものは何だろう」と。 理論に従って、命題が離散的でなく連続的に変化するなら、この差は何か。 これは、「相転移」と呼べば足りる。 発達心理学では、この目に見える規模で起きる「相転移」時期に注目して、発達段階を定めた。 何だ、単純じゃないか。
 P(X)を、括弧1つの心理状態と呼ぶことにすると、 括弧2つの心理状態が出てくるのは、前操作期末、7〜8歳と推測できる。 「他人が見ているものが、必ずしも自分と同じじゃない」ことに気付く時期。 ¬P(X)&P(B⊃P(X))の時期である。 他人という言葉を、過去の自分(数秒前であろうと過去)におきかえることにより、 P(P(X))の心理状態がより明確に説明できる。

 括弧2つの心理状態を持続させること自体が、誰かを大切に思っている証拠である。 思春期、つまり12歳頃になるまでは、括弧2つの心理状態を持続させることもできない。 さらに類推して単純計算すると、括弧3つの心理状態の出現は14〜16歳頃と推定される。 これは相手(自分も含め)の感情を尊重している心理状態と言える。 冷たい言い方になるが。
 金田一君のような推理は、 被害者の思考回路に対する犯人の判断を本人が推測する、最低で括弧3つの心理状態である。 括弧2つの心理状態を持続できる12歳の少年は、せいぜい想いを寄せる少女にしかその能力を使わない。 要するに金田一君は、括弧3つの思考回路を無駄遣いできる程に知能が高いというわけである。 設定のIQ=知能指数180も、根拠のない数字ではないと思う。

 そこをいくと数学者などは、人類に対する挑戦である。 7次元世界の住人の立場に立った思考など、よほど知能を持てあましているとしか思えない。 現実世界で発生する問題に退屈しているとしか思えない彼らの思考回路は、 東大法学部の女の子たちに言わせると「あの人たちは病気!」とのことである。 数学者の知能も視点を変えると、思考回路のアイドリングである。
 筆者が7次元空間にこだわる理由は特にないが、 東京大学理学部数学科教授の名言を刻んでおく。
−「先生、7次元空間なんて、どうやって想像したら良いのですか?」−
−『それはですね。N次元空間を想像して、Nに7を代入すれば良いのですよ』−




□10 納得と回収作業

 括弧1つの心理状態というのは、記憶の体系そのまんまである。 括弧2つの心理状態というのは、予想して、それを納得するかたちで回収するというイメージがある。 括弧3つになると、二段階の予測を立てる必要があるイメージがある。 ちなみに、東京大学の入試問題の数学は、二段階の予測を必要とすると高校の恩師が言っていた。 これは、回収に苦労する。
 どうやら人間は括弧2つ以上の心理状態が苦手なようだが、回収の難しさが挙げられる。 特に恋しているでもない彼女の心の中を予測しても、回収できることは滅多にない。 不安定なストレスに悩まされるだけで、実りのある成果は期待できない。 それでも、予測と回収のたびに知能は向上してゆくわけで、 現代教育においては、わざと試験を課して子どもに結果を回収させる。

 「これは前に覚えたはずだ」という試験中の思考は、括弧2つの心理状態である。 この程度なら直ちに回収できるが、仮説に仮説を接いだ筆者と亜友の痴話喧嘩のような場合、 本人が生きているうちに回収できるかというと、必ずしもそうでない。 歴史上の偉人たちが、その業績を本当に理解され評価されたのが死後というのも、然るべきである。
 歴史上の偉人たちを試験答案に喩えると、周囲の人たちが理解できる範囲でその答案に部分点を与え、 「彼は頭がよい」という前評判で死に、死後にその答案の真の意味が理解されたわけである。 すると、IQ150以上の人間の孤独は当然である。 三段論法を使わない彼らの答案は、周囲の人には部分点すら与えられない。 筆者の、大学入試の答案は、大学教授に採点させると点数が良かった。

 この「回収」という発想に至って、P(X)の本質が見えてくる。 シェファー・ストロークで繋がった、人間の思考回路の、位相幾何学的な種数である。 有機化学ではないが、ある一定の情報量を与えられた脳神経細胞は、 環状構造をとった方が定常波として安定構造で、この段階で相転移を起こすという説明が可能である。 P(B⊃P(X))のような状態では、たぶん種数が1になっているのだ。
 さらに、調子にのって憶測を続けると、 IQ150を超えると、平面では処理できない「ねじれの関係」にある神経細胞同士が論理ループに組み込まれてしまい、 平面的構造をもつ三段論法が、意味を持たなくなる相転移が起きている可能性も高い。 先の単純計算だと、括弧4つの心理状態は、19歳までに経験できない人の方が多い。 なら、使いこなすには最低でもIQ150は・・・。




□11 論理的宇宙観

 筆者の理論を亜友に適用した実験は成功し、 亜友適用時の理論に修正を加えた理論を、公文国際学園の教師らに適用した実験も成功した。 次に、この公文国際学園の教師らに適用した理論に修正を加え、 我が国の国会議員の思考に適用した実験を3年近く続けている。 衆議院議員の私設秘書という立場を最大限に悪用したこの実験が成功すれば、 理論はおおかた正しかったと言える。
 実験の成功を直ちに宣言するわけにいかないが、 初回の報告書が完成するなり国会が炎上し、以降、2年半で総理大臣が3人辞め、政権が野党に移った。 首相の辞任をもって理論の正当性を認めるわけにはいかないが、 政権の移行に伴って修正を加えた理論が 2009.11.13. に完成し、 この理論をもってすれば、我が国の国会議員の行動をほぼ全て説明できる。

 前の章で、物理学の話題まで随分と専門外のことを書いたと思ったが、 読み返してみると、それなりに筋は通っているように思える。 先ほどの文章を少し書き換えると、 「『説明のつかない、不自然な高エネルギー状態』にストレスを感じるという条件下において変分問題を解くと、 『宇宙の存在に説明を与える』方向に、宇宙は進化する」という、天才物理学者の出現を予言した説明になる。
 物理学においては、論理学的に説明のつかないものを「エネルギー」と呼ぶ嫌いがあり、 天才アインシュタインは、「論理学的に説明のつかないものは全て等価だ」と言ったようにも聞こえる。 先に改変して引用した文章は、筆者が人間の思考回路について説明した文章だから、 人間の思考回路と宇宙の超ひもが同じ構造をとっても、論理学的には当然なのである。

 すると、たいていの超ひもが両端に時間的要素を含む以上、「宇宙に論理は存在するのか」という話であり、 両端が繋がった超ひもには時間的要素が含まれない可能性はある。 これが、心理学的でいうユングの共時性と「直接」関係あるとは、筆者には思えないが、 「両端が繋がった超ひもって重力子じゃなかったっけ?」とするなら、 古来の占星術には意味があるのかも知れない。
 上の文章で「直接」と書いたのは、「たとえ重力子だとして、三半規管とは関係ないですよ」という程度の意味で、 心理学のページに書いたように人間の体内時計はそうとう正確なようであり、 体内時計の「本当に些細な」異変という程度には現れることもあるかもしれない。 最先端の観測機器が、人体の自律神経を上回ったとは、筆者にはどうしても思えない。




□12 振動数と知能指数

 人類の知能が進化したのは、「単に外界から受けるストレス値を最小化しようとした結果じゃないか」とする筆者の提案だが、 思考を定常波の合成と考える筆者の理論では当然の結論なのである。 というのも、高い振動数を持つ波動は、神経細胞を破壊する可能性が高い。 ということは、計算機科学におけるデータ圧縮の原理と同じで、 「観測が稀な事象」ほど高い振動数を持つ波に変換すべきである。
 すると、「記号の解像度」の章で書いた「人間は、自らの知能指数を超える振動数の波を、読み取れない」と書いたのは、 知能指数というのが本質的にストレス耐性であって、 「高い振動数を持つ波動を読み取る能力」と、「神経細胞が破壊されるリスク」は表裏一体なのだ。 破壊された神経細胞はどこに行くか。医学的には、尿酸値にでも影響するんじゃない?

 すると知能指数の高さというのは、「破壊された神経細胞の再生が速い」とか「神経細胞が丈夫である」などの理由が考えられ、 神経細胞を鍛えれば後天的に後者のような変化が現れ、 前者はRNAから転写される酵素の問題だから、遺伝要素が強い先天的な問題である。 なんだ。人間の知能の医学的な問題も、筆者の理論で説明できるじゃないか。
 すると、教育というのは単に神経細胞を強くする訓練に過ぎないのだから、実際のところ方法はあまり関係ない。 厚木第二小学校の「夫婦喧嘩」だろうと、公文国際学園での「痴話喧嘩」だろうと、知能は十分に発達するのである。 つまり、外界からのストレスであれは質や内容は問われず、 「自分の父親は誰なのだろう」というストレスですら、私生児の知能発展に貢献する。

 最初の話に戻ると、この知能指数が低いと、「観測が稀な事象」を読み取れない。 「観測が稀」というのは、「論理的に不可能である」という意味ではない。 仮に世界が、「論理的に可能である事象が全て等しい確率で起こりうる」臨界状態にあれば、 「観測が稀な事象」という表現は存在しない。 ということは、物理学的には、世界の対称性が破れているということである。
 逆に言うと、エントロピー増大則に従って世界が対称性を回復し、情報エントロピーも増大しつつあるのなら、 情報処理が追いつかない水準の知能指数の持ち主は、この「臨界状態」or「可能世界」を生き抜くことができない。 だから法律やら制度を設立してエントロピー増大則に逆らおうと努力するのだろうが、 動物行動学的にいえば、遺伝情報エントロピーは増大しつつあるはずである。




□13 思考速度と桁落ち

 「納得と回収作業」のところで、()の数が増えると種数が0から1に増え、ループが形成されるなどと書いた。 思いつきで書いた仮説なのだが、上の章で「高い振動数」が意味づけされてみると、ループの存在には意味がある。 波長が神経細胞大のオーダー(1/10 〜 10 倍)なら直線でも良いが、 1段階下のオーダー(1/10 〜 1/100 倍)では、感覚器の能力を超える。
 超人的な感覚器を持った者ならそれでも良いが、感覚器を進化させる労力を思うと、 神経細胞をループにして、波動の位相差を感覚器で測定した方が容易だろうと考えられる。 つまり、自らの思考回路による結論と、「自分がAさんだったら」の思考回路による結論の違いを利用して真実を推論する方法である。 なるほど、これで()の意味づけができた。

 すると、自らの立場の思考回路と、「自分がAさんだったら」の立場の思考回路と、「自分がBさんだったら」の立場の思考回路と、 同様の思考回路をいくつ同時に走らせて、位相差から真実を導けるかで()の数が決まる。 これは、筆者の理論における()の定義そのままである。 ただし、この思考では複数の波動を合成する瞬間に発生する、高い振動数の波動が神経細胞を破壊すると。
 神経細胞が消耗してゆくという代償を払ってでも、常に「観測が稀な事象」に対処できるように備えて思考するのは、 「神経細胞の日常的な浪費よりも、 その『観測が稀な事象』が発生した万が一の場合を見過ごした場合の方が、損害が大きい」からである。 「観測が稀な事象」を見過ごした後悔が積み重なって、日常の大切さを思い知る人生訓である。

 ここまでの結論を総括すると、人間の神経細胞は両端の矛盾に違和感を感じる神経細胞(ニューロン)である。 両端の矛盾に違和感を感じると、他のニューロンに助けを求めてシナプスを伸ばすのかも知れない。 この構造は、「シェファー・ストローク」そのものである。 神経細胞同士を流れる電気信号は、定常波を形成すると脳内に蓄積される。
 そして神経細胞自体の数は増えないという条件で、外界から受けるストレス値を最小化する方向で変分問題を解くと、 「観測が稀な事象」に対しても違和感の原因を究明し、「納得」として回収できる方向に成長してゆく。 原則を先に学校で学び、徐々に例外を学んでゆくという教育方針は、 この世界がまだまだ「可能世界」ではなく、事象に偏りがあることを示すんだよナ。