心理学の脅威へ  2010.11.21.

−ユング心理学のフロンティアのような人生−





 ・世界平和のために


「どうして、こんな恥知らずな website を作ったのですか?」

「『世界の警察』を自称する国の面目を潰すことが、平和への近道と考えたからです」










 ・数学者と東洋医学


 このページは、西洋医学を超越している。
「数学者の知能は西洋医学では説明できないんだ」と、勝手に考えていた

 そうしたら偶然、聖マリアンナ医科大で、
東京大学医学部付属の病院の精神科、栗田先生の話を聞いて、何となく調べた。



 専門は気功や東洋医学ということで、
東京大学を卒業しているのだが、医学部ではなく「理学部数学科」だった

 これで、単純な結論に至る。
IQ160を超える知能指数の持ち主は、西洋医学の限界を超えているのである。



 最近出た「嘘発見器」の結論で、
ぼくの自律神経は、精密さの点で現代の最先端科学に勝るという話だ

 世界各地に散在する、この種の人は、
日常的なユングの「共時性」とか、住んでいる世界が違うと思った方が良い。



 もちろん、西洋医学は否定しない。





 コラム 「突っ込み 東大医学部」











 ・究極の脳トレ


 ぼくの提案する究極の脳トレ理論だが、
障碍者介護というのは、本質的に脳トレなのじゃないかと考え始めた

 脳の、普段は使わない部分を使うから。
身体を動かすにしろ、知的障碍児の話を聞くにも、普段とは違う頭を使う。

 だから、老人や障碍者が進化したのだ。
障碍者の存在意義は、本質的に脳の活性化なのではないかという理論だ。



 ゲーム機が出題する、脳トレの問題。
答えても誰にも感謝されないのだから、非常に孤独な脳トレなのである

 授業の合間に、亜友の相手をするのは、
本人にも、彼女の両親にも感謝される、ちょっとした脳トレだったのだろうか。

 障碍児学級の意義を問い直すべきだ。
学級には障碍児の1人や2人いないと、算数・数学の授業が退屈で仕方ない。



 「効果には個人差がある」程度なら良い。
「遺伝的にダメな人は何やってもダメです」と書いたら、商品は売れない

 能力開発系の商品は、全部そうだと思う。









 ・知能指数の向上


 進化の過程で、発達した人類の知能。
その知能を、金儲けのために使うことは、神に対する冒涜ではないのか?

 進化した知能は、次世代のために使う。
知能は、恋愛のために使われてこそ本当であり、文化は副産物じゃないのか。



 人工知能理論で、ぼくが考えたことだが、
知能指数の高さは、誰かの立場になって考えるときにしか役に立たない

 この能力は、いつ役に立つかというと、
一夫一妻制の本質として、「恋の行方を占う」際にしか役に立たないと思う。

 妻の立場で、他の男のことを考える。
妻は、その男の立場に立って、その男の妻のことを考えてみるわけである。

 ここまでやると、必ず見落としが出る。
恋の行方予想に失敗すると、子孫を残せずに、その遺伝子は消えてゆく・・・。



 だが現代人は、知能を金儲けに使う。
それは、金を稼いでから性を買えばよいという発想が、根本にあるから

 今どきの女子大生を見ても、分かる。
東京大学の教官が、「駒場の従軍慰安婦」と失言したのも、分かる気はする。

 その辺を、きちんと心得た web 告発。
永田町に無償で情報提供して、「報酬は亜友との結婚後で構わない」を貫く。

 「なんて欲のない男だ」という話だが、
亜友・父に言わせてみると、「なんて欲の深い男だ!」になってしまうらしい。









 数学者の知能の必然性


 「古代ギリシャのIQテスト」を見てみよう。
35orpheus.html(←リンク)の、パスカルの三角形に書いてある

 古代の数学者が、熱心に眺めたはずの図表。
心理学者の視点で見れば、現代でも通用するIQテストにしか見えない。

 すると、必然的に結論を得る。
そもそも初等整数論は、最初からIQの低い人を相手にしていない



 整数論は、数学で最も難解。
あまりの難しさに、数学者の自殺が最も多いと言われる分野だ

 無視されがちなIQの事実。
一般的に、ヒトのIQは三十代以降、徐々に低下してゆくと言われる。

 二十代後半の数学者の自殺。
偏差値に一喜一憂する教育ママは、数学者の命日に献花すべきだ。



 すると公文式の限界である。
教育で知能の本質が伸びるなら、数学者は苦労しないのである

 ユークリッドも言ったはず。
受験産業は、「幾何学に王道なし」という古来の名言に挑戦したのだ。

 なら、公文式の本質は何か。
おそらくは、人為的に知能指数のピーク年齢を前倒ししているだけだ。


 東大合格後の燃え尽き症候群(*1)も、知られている。



 パスカルの三角形を眺めていて、
知能指数とは、心理学でいう「図と地」を統合する能力じゃないか

 掛け算九九の、二つの数の交換。
あれは、心理学の「図と地」の法則に反するから、小学生がつまずく。

 先生は、長方形を反転させ説明(*2)
量子力学を説明する変分原理の、主客変換の原点がここにあるのだ。



 「図と地」を統合できない人は、
変化してゆく図と地の両者の規則性を、読み解くことができない

 人類の知能が進化した理由だろう。
常に変化する二人の関係に対応できない人は、結婚できずに絶滅する。

 確かに、社会科学の成果は認める。
だが、人類の発展の本質は、能力の限界を意識した消去法だと思う。





 そこで、知能を伸ばすのは諦める。
なら、変化する両者の規則性を強調するデザイン(*3)は、頭に優しい

 知的な、ユニバーサルデザインだ。
最初から、「図と地」を統合した表現を目指せば、知的格差は埋まるはず。

 誰もが、そういう表現に親しめば、
「図と地」を意識した喋り方をする奴は、詐欺師ということで警戒される。

 だが、そのせいで法律は複雑化した。
その結果、かえって詐欺師にとっては有利な環境が整ったようである。



 理屈では、やむを得ない。
「詐欺に王道はない」(*4)のだから、ユニバーサルデザインなど無い。

 ぼくは、知能を重視しない。
むしろ人類にとって本質的な職業は、結婚詐欺師に違いない(*5)と考える。

 数学の、整数論の複雑化。
たぶん、規則性を強調した表現を求めた結果、ああなってしまったのだろう。



 岡澤は、最近の自分のIQを知らない。
2007年の秋頃に、公安か何かが岡澤のIQを調べていた様子だが

 このサイトの文章から心理技官が推定。
東京大学の心理学研究室あたりに、IQ解析を依頼した可能性も高い。

 「010013age.html」の人気が高かった。
不思議に思っていたが、当時IQの話題に触れた唯一の文章だった。

 だから、公安がIQ測定をしていたのだろう。
「単独犯行が可能な知能犯は、共犯を作る可能性が低い」から。



(*1)・・・・・・04todai.html(←リンク)も、参照のこと。
(*2)・・・・・・物理の話題だが、多重パイこね変換の時間逆転操作の気持ち悪さと共通する。
(*3)・・・・・・三権分立の思想と、ポアンカレの三体問題の類似性。
(*4)・・・・・・開設しました。詐欺の王道。3401trickery.html(←リンク)
(*5)・・・・・・そりゃあ、街を歩くだけで、女の子から年齢を間違えられるのですから。





 ・関係念慮と一夫一妻制


 人間は、一夫一妻制をとっているが、
初めての性体験の相手との間に、関係念慮を抱くだけじゃないのか

 多くの動物に、類似現象が見られる。
ヒヨコは、最初に見た動く物を自分の親族として関連づけて、追いかけてゆく。



 だから、偶然にも遺伝子が組み替わり、
最初に性体験を持った相手を、自分の親族として関連づけることもある

 つまり、ストーカー化した類人猿だ。
「結婚は、恋愛結婚に限る」文化は、ストーカー殺人を減少させるため?



 すると、さらに遺伝子が複雑化して、
最初に性的興味を抱いた対象を、フェチズムとして発達させることもある

 まあ、妥当な結論だと言える。
典型的現代人だと、人生で最初に性的興味を満たしてくれたのは、マネー?

 性が、商品として陳列されている。
IT革命を支えたのは成人向けサイトだが、資本主義化を支えたのも売春宿?

 金さえあれば、子孫を残せるのだ。
ああ、我が日本政府の子ども手当が、性淘汰の是正にしか見えなくなった!










 ・「みんなに百点」の思想


 資本主義社会を表現するなら、
「自己評価75点の製品を良心的な価格で提供する」社会である。

 これは公文式理念と食い違う。
公文式の標準完成時間=満点答案を作成するという最終目標がある。

 公文式の理念は根付いている。
岡澤の行動は、自己評価75点では決して満足しない生き方に思える。

 自分に満点を求めすぎている。
満点答案の作成前に死んでしまったら、何も残らない人生なのである。



 公文公氏は、やや極端だった。
解答書を写してでも満点答案を作成すべき、という信念だった。

 満点答案の思想を徹底した。
思想としては首尾一貫しているが、教育を受けるのは人間なのである。

 高校数学に、満点を求めるか。
満点答案を要求することが許されるのは、せめて小学校の算数まで。

 大人に満点を要求する思想。
全ての発達課題を完璧にこなすまで、社会に出られなくなってしまう。



 公文の本質はこの先だろう。
2007年春に書いたように、公文式では自分の能力の限界を学ぶ

 公文は、入会時に説明がある。
自分独りで満点がとれるレベルに合わせ、簡単な教材から開始する。

 この思想を、日常生活に移す。
自分独りで満点がとれるレベルに合わせ、生活水準を下げれば良い。

 美しく悟った生き方ではある。
だが、資本主義社会においては出世を諦め、負けている感じである。



 職業召命説といえば、そうだ。
「ひとりひとりに、ちょうどの学習」という公文式の宣伝文句の通り。

 無理をせず自分に合った仕事。
詐欺師でも労働者でも、自分の仕事に誇りさえ持てれば、それで良い。

 仕事で背伸びする必要はない。
人類種の遺伝的特徴は唯一、人類種との結婚ができることだけだから。









 ・数学最終V教材


 小学4年の5月にV教材終了。
数学V教材は、東京大学数学科でも必修ではない微分幾何だ。

 初期の学園には修了者が多い。
そして皆が口々に「丸暗記と丸写しで終了した」と言うので安心する。

 だが単純にそうとも言えない。
数学の答案といっても、小学生には酷なほどに記号や文字式が多い。

 単なる丸写しなど無理である。
優秀な学習者は、解答書の要約を作って書き写していたはずである。



 要約を作るにも能力が必要だ。
微分幾何学の答案を読んで、意味を推測できる能力が必要だ。

 これが無理だと終了は苦痛だ。
もちろん、この能力があっても小学生のV教材は苦痛に間違いない。

 V教材は1枚30〜60分かかる。
解答書を使えば誰でも解けるが、完成までの時間は大きな差が出る。

 これが標準完成時間の考え方。
しかし公文は、最初に否定した学習進度ばかりを強調してしまった。



 学習進度は公文に不要である。
だが完成時間より、学習進度の方がパフォーマンスがあった

 公文はその宣伝効果に負けた。
自己評価75点のプリント教材を良心的価格で販売する企業に堕した。

 これ以上はない皮肉に思える。
生徒に満点を要求する公文式は、自分たちの商売には75点の自信。



 最後に、解答丸写しについて。
岡澤の、「世界は引用のモザイク」という発想の原点に思える。

 数学の勉強法としては疑問だ。
だが法学部、国家公務員になるための勉強法としては悪くもない。

 独創的な解答が許されない所。
すると、裏メニューの最終教材が政権打倒でも強ち否定できない。

 世界平和のための公文式学習。
最終教材修了試験の衝撃が先着1名(*)というのでは、残酷な話。



(*)・・・「V」教材修了試験の合格者は、岡澤以外にもいたのだろうか。





 ・超右脳革命


 小脳出血と脳科学への興味。
公文国際学園在学中の岡澤は、七田眞氏の本に熱中した

 小脳出血の後遺症改善目的。
そういう理由で父に自律訓練法を教わり、同書の内容と重なる。

 医師が作った呼吸法である。
自律神経失調症の治療などにも使われるらしいと、聞いている。

 なぜ、父が知っていたのか。
自律訓練法というのは催眠の基本であり、催眠には詳しい父だ。



 特殊能力の存在は分からない。
だが仮に存在すれば、信じる人の能力は増強されるだろう

 心理学のピグマリオン効果。
驚異的な記憶力などは、ピグマリオン効果で身に付けるようだ。

 亜友との高校時代の大騒ぎ。
別に、テレパシー能力を使って亜友の心を読んだわけではない。

 円周率を1万桁覚えた経験。
常識人の東大生たちに言わせると、ほとんど超能力者だという。



 超能力を論じる必要はない。
超能力を身につけようとする人間の動機こそ、科学的でない。

 理論的には、研究中らしい。
東大教養の英語の授業で、能力の限界のようなビデオがあった。

 障害者の、残存能力の話だ。
障害者の中には、特異な残存能力を発達させた者もいるわけだ。

 だから、自然の摂理である。
岡澤の円周率も、身体障害の代償作用として説明すれば良い。



 すると、超能力の研究自体、
辛うじて障害者として生き残った幸運(*)を研究対象としている。

 岡澤・父は催眠術を学んだ。
自律神経失調症と、精神的な解離症状の改善効果もあったらしい。

 父は良くない利用をしたが、
勉強の動機は治療目的だったらしく、悪意があった様子ではない。

 仲間内で流行したという話。
個人的には、昭和30年代末高円寺の某医院での流行を疑っている。



(*)・・・・・・岡澤も亜友も、少々運が良すぎる。





 ・小学生には難しい話


 懐かしい話を、ふと思い出した。
そう考えるとこのweb告発も、父親の教育の成果だと言える

 岡澤兄妹は、こういう家庭だから、
小学校入学前には「競馬・競輪・麻雀」といった言葉を知っている。

 競馬場にも、パチンコ店にも、
雀荘にも、果てはモグリの賭場にさえ、3歳前にはデビューする。



 大きな問題は何だったかというと、
この兄妹は、「負ける」という言葉を知らずに小学校に入学した

 二年生頃になって、変だと気付く。
同級生の、「お父さん、また競馬で負けて帰ってきた」が理解できない。

 競馬が何か、詳しく知らなくとも、
兄妹とも、8歳頃まで、「お金に困れば競馬に行くものだ」感覚だった。



 ギャンブルの哲学を、心得ている。
人生においては、一か八かの大勝負には、トラブルが付き物だ

 つまり、勝敗は本質ではないのだ。
冷静さを失った奴は、勝っても負けても、その後のトラブルにて死ぬ。

 父は、負けもないが大勝もしない。
モグリの賭場で、胴元でもしていた時期がありそうだが、不詳である。







 ・似非オカルト?


 超常現象について先に見解を述べておくと、
例えば、100キロ以上離れた場所の爆音が聞こえる話を御存知だろうか

 爆音でも、10キロも離れればもう聞こえない。
ところが、100キロ以上離れた場所で、何故か聞こえるという「超常」現象だ。

 岡澤も、最近知ったばかりの話なのだが、
地上80km付近の熱圏で屈折し反射し、地上では100km以上離れて聞こえるという。

 たぶん、音波がP波だから起きる現象だ。
10km離れて音が聞こえないのは、距離のせいではなく、地平線を越えないだけ。



 という科学的な因果関係があるのだが、
常識を超えているから、世間の人たちは「超常」現象扱いをするのだ

 世の中、そんなものばっかりである。
原因と結果が存在しても、因果関係が推測できないとオカルト扱いになる。



 言葉尻を捕まえての、オカルト扱いもある。
例えば、「携帯電話の電波は、空から降ってくるから危ない」は、オカルト

 おそらく、日本人の大半は耳を貸さない。
だが、「電波は真っ直ぐ進むので、電離圏で反射するが大丈夫か」なら問題ない。

 要するに、「週間こどもニュース」の原理。
簡単なことを簡単な言葉で説明されると、日本人は子供だましだと感じるのだ。

 これは、大卒者が多いことが原因だろう。
日本では、難しい言葉を使い方が大人の証のように思われ、子どもを相手にしない。



 それは、単に教養知識の欠如が原因だ。
逆に、難しい言葉で書いてあるだけで、劇場のイドラが発動する日本人だ

 ぼくの website は、様々な分野に飛ぶ。
それは、電波っぽい雰囲気を醸し出すだけで、苦情を勘弁してもらえるから。

 という見解を前提に、以下の文章を読んで欲しい。









 ・セレンディピティ


 広辞苑に載っている定義は、
「思わぬものを偶然に発見する能力。幸運を招き寄せる力」

 非科学的な、と誰もが思う。
岡澤のセレンディピティの追い風を、理論的に考察してみよう。



 人間万事塞翁が馬という。
幸運と不運をア・プリオリに区別することは、不可能なのだ

 幸運も不運も偶然の範疇。
必然的に偶然を手に入れる能力というのは、論理的には矛盾する。

 では、偶然の視点を変える。
本人にとっては偶然の発見でも、理論的には必然という場合がある。

 洞窟の中から音が聞こえた。
それを辿ってゆけば、少なくとも「何か」は発見できるはずである。



 このことから、結論を得る。
偶然と必然を区別できる能力があれば、最悪でも何かは得る

 簡単にテストする方法がある。
「あなたの人生のうち、偶然が占める割合はどのくらいですか」と聞く。

 岡澤の答えだと、1〜3%。
これだけ少ない割合の偶然なら、幸運を取り逃がすことも少ないだろう。

 岡澤の言い分は、単純である。
人生における疑問は、逐一立ち止まって、根本から解決してきたのだ。



 その理屈を信じる岡澤は、
たとえ10年の歳月をかけてでも、ストーカー騒ぎの謎を解きたかった

 将来有望とされた数学者。
それでも、数学界の謎よりも自分の人生に謎を残さないことを優先した。

 自分の人生は必然なのだ。
同じ視点で日本政府を眺めていると、出来レースにしか見えないわけだ。

 これは、幸運とも限らない。
「幸運にも賞賛される」結末もあれば、「不運にも暗殺される」結末もある。







 ・知能指数と幸運の女神


 偶然と必然を区別する能力だが、
高校1年の頃の話に、興味深いエピソードが残っているので書く

 岡澤が、会議の混乱を鎮めた話。
岡澤の珍妙な発言で議長が笑い出した後、一転して話がまとまった。

 周囲の生徒には、話が見えない。
「偶然にしては出来すぎている」けれど、必然性が見つからない。



 いわゆる、「天然もどき」である。
岡澤の珍妙な発言は、緻密に計算された議長へのメッセージだった

 議長は、自分に対する指摘に気付いたが、
所詮は他人事である周囲の生徒は、「偶然」と「必然」の区別がつかない。

 ところが、1人だけ気がついた。
この website では女神扱いされているY子ちゃんだけが、気がついた。



 Y子ちゃんの解説にも、皆は半信半疑。
生徒の一団は、岡澤と親しく頭の良い羽生に、その解説を求めにゆく

 羽生は、Y子ちゃんの発見に全てを悟る。
今の展開は偶然なんかじゃなく、岡澤の緻密な計算の結果だったのだと。

 羽生の解説に、一同は感嘆の声をあげる。
逆に言うと、ここまで手順を踏まないと、「偶然」か「必然」か分からない。

 * 岡澤本人は、謎解きをせずに帰った





 ここから、一つの結論を得るならば、
知能指数がそこそこ近接していないと、相手の言動の必然性が見えない

 岡澤も、Y子ちゃんも、変わり者扱い。
思考速度が速すぎて、一般の生徒には読み取れなかっただけじゃないのか。

 思考速度を、観察対象に合わせないと、
確率的な「偶然」か、法則性のある「必然」か、区別がつかない話である。



 さらに、思いつく具体例を挙げると、
小学1年の岡澤は、算数の授業を皆の「分からない振り」だと思っていた

 二次方程式を習得した7歳児の目に、
掛け算九九に苦労する同級生の、「偶然」と「必然」の区別がつかなかった。

 小学3年で、頭の良いS君と出会った。
S君の解説を聞いて、ようやく「同級生は算数を知らない」現実を理解できた。



 それなら、一般化できる話ではないが、
思考速度が十分に速くないと、幸運の女神を逃してしまう結末になる

 しかし、IQが著しく高い人というのは、
速すぎる幸運の女神を追いかけて、現実世界から遠ざかってしまうのだろう。

 数学者と呼ばれる人種は、この典型。
岡澤は、亜友を捕まえて戻ってきたら、数学科に居場所がなかったわけで。







 ・科学と宗教の両立


 理屈は、単純なことである。
偶然を認めたくない岡澤は、そのあまりに女神を想定したわけだ

 女神の仕業か、偶然か。
ここで、「偶然」のせいにして高校時代を忘れてしまわなかったのだ。

 社会科学による結論として、
心理学による癒しは宗教には敵わないという答えは、十分に有り得る。

 Y子ちゃんの言葉を神託と信じ、
カウンセラーや弁護士の意見を否定して、独自の解決策を得たのだ。



 運命の女神の必然を信じ、
それでも自らの記憶力を頼み、女神の神秘を一枚ずつ剥いでいく

 そして8年後に結論を得て、
亜友の起こしたストーカー騒ぎは、一貫した論理で説明されてしまった。

 信仰と科学の両立である。
セレンティビティとは、信仰というか、自己意識の科学の一種だと思う。

 実際、中学時代の岡澤は、
レイモンド=スマリヤン氏の本を元に、自己意識の論理学を創作した。



 すると、結論が見えてくる。
論理学によって人生を解明しようとする人は、論理学的に幸運を得る

 宗教家も同様のことを言う。
信仰によって人生を語ろうとする人は、信仰によって幸運を得るのだ。

 現代人の大半は、最後の部類。
偶然という言葉で人生を語る人は、偶然によってしか幸運を得られない。

 ちなみに亜友は、もう一つ。
感情だけで人生を表現する人は、感情に流されて幸運を得るのである。



 ユングの分類に従うならば、
岡澤の場合が思考・直感機能で、亜友の場合が感情・感覚機能である

 亜友の感情機能には気付いた。
亜友の高度な感情機能を見て、その知能回復の可能性は高いと考えた。

 なら、セレンディピティとは、
思考機能なり感情機能なりの取り柄がないと、効果は低いのかも知れない。

 だから、信仰が幸福の近道。
ギャンブルや日常の幸運でさえ、感覚機能の優れた人の独擅場に思える。









 ・タイミングの理論


 何を言うか、どう言うか。
それよりも、どのタイミングで言うかが重要であるという理論だ。

 養老孟司先生の「バカの壁」。
タイミングを外すと、何を言っても聞いてもらえない状況も発生する。

 ファインマンの話もある。
皆が真剣に悩んでいる最中に、ドア泥棒だと名乗り出ても伝わらない。

 逆に、情報を受ける側は、
その瞬間に「バカの壁」が発生していると、幸運を逃す結果になる。



 この理屈に通じている岡澤。
2007年春に国会に情報を流すと、翌週「政治とカネ」で炎上した

 セレンディピティの逆理論。
思わぬものを強制的に発見させる能力を、実演しただけである。

 政治も、モテ理論も、同じ。
自らの素晴らしさを、相手に必然的に発見してもらう必要がある。

 自分から主張しても無駄。
「バカの壁」がある限り、話の内容よりもタイミングが重要なのだ。



 ゆっくり、繰り返し、話す。
日本の催眠導入の技法は、理論上、「バカの壁」を超えられる

 究極の、タイミングの理論。
西洋医学では、医者に聞く耳を持たない患者の治療は極めて難しい。

 だから、亜友の治療は無理。
亜友の知能回復は、岡澤家に伝わる催眠導入の技術が高かったから。

 なら、催眠は世界を救うか。
催眠入門書には、「できない人には一生できない」と書いてあった。



 科学は人類に対し容赦ない。
「セレンディピティも、訓練ではどうにもならない」と、類推できる。

 先の能力を催眠感受性という。
催眠感受性の高い人は、自分のストレスを催眠で調整できるだろう。

 そうでない人は、高い金を払い、
高価な西洋医学の薬を買い、ストレス社会を生き延びねばならない。

 岡澤の場合は、人工知能理論。
情報の周波数の調整機能(タイミング)は、ハードウェアの課題だ。









 ・ユングを読んで


 直感機能を分類した人。
数学者として、「何、このオルフェウス教徒」が第一印象である

 詳細は別の箇所に譲る。
数学者の視点では、直感機能は基本的な思考パターンの一つなのだ。

 七田眞を読んだ身では、
ユングを読んで「控えめな七田眞」という印象でも、仕方あるまい。

 逆に言うとこの主張は、
数学者が着想や思考回路を鍛えるためには、役に立つと考えられる。



 セレンディピティを書いた。
しかし、セレンディピティだけでは人生を説明するのに足りない

 ユングの共時性の話になる。
数学者の視点では、ユングは4次元空間を変分原理で説明しただけ。

 4次元空間は、相対性理論。
量子力学的な変分原理との合成の結果、現代の科学を超えただけだ。

 だから、非科学とも言えない。
「Y子ちゃん=女神」説に比べれば、はるかに科学的な発想である。



 セレンディピティの問題点。
運命の皮肉を必然として解釈すると、ブラック・ユーモアが生まれる

 幸運と不運は同様に確からしい。
幸運と不運を対等に扱うことは、ときに自己を傷つけ、他人の感情を害する。

 幸運を追いかけるためには、
最悪の不運を想定することに耐えられるだけの心臓が、必要に思えるのだ。

 科学的には不十分な議論。
だが心理技術者としては、科学的根拠が出てからの判断では遅いと思う。



 共時性に関し、こんな話がある。
病室に並んだ植物状態の患者たちの脈拍が、シンクロを始めたという

 彼らは、無意識の世界の住人だ。
無意識の世界の住人が体内の機能を操り、コミュニケーションを試みる。

 身体の代償作用である。
理屈では、植物状態から回復した人には、特殊能力があっても良い(*1)

 昏睡状態から回復をして、
新たに目覚めるのは「健康の大切さ」だけではない(*2)と、考えるわけだ。





(*1)・・・・・・あえて岡澤を殺すような不道徳法案を可決するのがミソなのでしょう。
(*2)・・・・・・岡澤・祖父もファンだった、高木善之氏が「超右脳革命」の冒頭にいるのが気になる。






 ・共時性の理屈


 共時性に対する考え方が少し変わった。
あれは、人間に内在するタイミングの理論で、説明できるのじゃないか

 要するに、テレパシーなのではなく、
10年前に2人で設定した目覚まし時計が、同時に鳴り出したという結論である。

 人間の思考回路は、想像以上に精密だ。
10年や15年前の記憶は、意識するのは難しいが、無意識の中で永久保存される。



 10年の時を経て、同時に鳴る目覚ましだが、
岡澤・母が、正確に4年10〜11ヶ月の周期で統合失調症の発作を起こすのだ

 そう考えると、共時性を否定できない。
女性の生理周期が、共同生活をすることでシンクロする現象は知られている。

 黄体刺激ホルモン、プロラクチンの周期。
上記の脈拍のシンクロも、同様の現象と片付けることで解決するのじゃないか。



 すると、本格的な占い師も説明できる。
眼前の人と生理現象をシンクロさせ、近未来を推定することも可能なはず

 岡澤の人工知能研究の、観察において、
その2週間前には、「6月後半には亜友は自殺しそうに苦しむ」と、言い当てた。

 相手の生理現象をシンクロさせる技法。
東洋の、伝統的な催眠術の技法(*1)は、まさにその通りと言うべきなのだろう。



 これは、人類の進化なのだろうか。
いや、「自我」の形成に当たっては、むしろ失われた方が都合の良い能力

 つまり、一種の野生化(*2)と言える。
進化した感覚器官の束縛を解き、意図的に野生の状態に戻してシンクロさせる。

 これは、「ピカソの視覚神経」だ。
岡澤は、数学の思考回路を解放し、野生の状態に戻し亜友にシンクロさせた?



 これを、プロラクチンで説明する理由。
子育てって、束縛を解き、本質的にそういう作業ではないのでしょうか?



(*1)・・・・・・うちの猫は、七田式教育は受けていないが、腹式呼吸をしている。
(*2)・・・・・・上記の岡澤・祖父は、稲を野生化させる事業に取り組んでいる。





 ・大学の先生が好きそうな話


 このウェブサイトは、専門知識の塊ではなく、
教養に過ぎない知識が、国家権力に横槍を入れた形式である。

 教養は英語で"liberal arts"と表現し、
自由の意の"liberal"は、何に対して自由なのかと調べてみると、

 単語自体が「自由な人にふさわしい」の意味、
要するに教養とは、あらゆる権力から自由な学芸という意味になる。

 瀬地山先生の話の受け売りだと思うのだが、
先生は、「そんな下品な学生、教えた覚えない」と言うかもしれない。



 教養とは、母語の語彙に過ぎないと思う。
言葉のほとんどは同語反復であり、世界の大部分は出来レースだ

 喩えるなら、「下降気流」と、「高気圧」。
同じ現象に、異なる観測者が違った呼び方をしただけに過ぎない言葉。


 小学生の、「夏休み子ども電話相談」風に言うと、
「どうして風が吹いてくるのに、南では空気が無くならないのですか」

 正解は、「南では、空から空気が降ってくるから」
「空気が降ってくるから空が重い」=「高気圧」という、それだけの話だ。

 「下降気流が発生すると、高気圧になる」
それは、「空気が降ってくるから空が重い」と、二回も続けただけである。

 だから、言葉のほとんどは同語反復。


 数学で言う、バナッハ・タルスキの逆説。
1つの現象をバラして組み立てると、何故か体積が2倍になっている

 実解析においては逆説かも知れないが、
情報量の理論では、日常茶飯事の出来事として観測されているはずである。

 これは、本来の岡澤の専門分野の話だ。
「自然言語においては、選択公理が当然視されている」から発生するのだろう。





 最近、ちょっと驚いた話。

 実は、トランプの絵札には人物モデルが存在し、
日本の教養人の多くは、その事実をわりと良く知っているのである

 母語の語彙でも、ここまで増やせば天晴れ。
母語の語彙でも一定量を超えると、国家権力に横槍を入れられるのだ。

 教養を侮ってはいけない。





小川三四郎探偵事務所
代表取締役社長 岡澤代祐
sanshiro@sastik.com