小川三四郎探偵事務所の犯罪学


 久しぶりに、つげ義春を手にとって、

小川三四郎探偵事務所の原点がどこにあるか、思い出した気がする。



□1 はじめに


 そもそも、新橋に事務所を構えた2006年、
あらゆる世代の人から聞き込み調査ができるよう、戦後の文化史を軽く学んだ

 その一環で、 Bar から寿司屋まで幅広く出入りし、
Pink lady から、松田聖子に Wink まで、自分たちより上の世代の世間話にも相槌はうてる。

 なぜ、これが犯罪学の冒頭の話題なのか。
戦後の日本文化史は、戦争を起こした世代と、巻き込まれた世代の対話なのである





   □2 和歌山毒カレー事件
   □3 冤罪事件には悪いが
   □4 加害者に同情の視点
   □5 戦争は何だったのか
   □6 有印私文書偽造疑惑
   □7 つげ義春と教育ママ
   □8 戦争を起こした父親
   □9 死刑は人権の侵害か
   □10 そんな中流意識の心
   □11 Death Note的世界観
   □12 死に神と偶然防衛
   □13 工藤新一プロファイル
   □14 完全犯罪と透明少女






□2 和歌山毒カレー事件

 昨夜の発見には、正直傷ついている。 1997.1.18. に、ぼくの飛び降り自殺の痕跡を見て取り乱している玲奈ちゃんに、 「落ち着いて。これは軽い精神安定剤だから」と言って致死量の睡眠薬を飲ませた場合、これは完全犯罪である。 これは、以前予測した「もう少しエレガントな殺人理論」と呼んで構わないと思う。 状況証拠と動機だけで犯人を特定するしかない。
 犯罪素人が、「人権侵害だ。冤罪の可能性がある」と言ったところで、科学捜査は限られている。 実行犯の自宅から、ぼくの飛び降り自殺偽装に使われた道具が出てこようと、同じ睡眠薬が出てこようと、 それは状況証拠に過ぎず、指紋が一致しようと、「略取誘拐罪」までしか立証できない。 「殺人罪」の成立は、動機と本人の自白で争うしかない。

 「私は『名探偵コナン』のコナンが嫌いだ」という、(一部では)有名な新聞への投稿があった。 科学的捜査を経ず、独断と偏見だけで犯人を決め付けてゆく偉そうな態度が嫌いだという。 だが、そもそも警察や検察ですら独断と偏見で犯人を決め付けることがあるわけで、これはコナンに限らない。 ところが、上段の事例では、独断と偏見で犯人を決め付けるしかない。
 「この場合は、これだけ状況証拠が揃っているんだし」と言うのであれば、 コナンに言わせれば「この場合も、これだけ状況証拠が揃っているんだし」で犯人を決めているのである。 どんな事件でも、「真犯人が別人に容疑を着せるための偽装工作」の可能性は、十分にある。 だから警察の捜査も、犯罪の専門家が多数決で犯人を決めている要素は、あるわけだ。

 おそらく、そういう恋愛の経験者は、人間のそういう「曖昧な」部分を無意識に認めている。 それだけの美しい恋愛でさえ、出会いのきっかけは曖昧だったはずだから。 その曖昧さを嫌うというのは、単に「俺には追死してくれるような恋人と出会ったことはないよ」と同値だと思うが、 投稿者をいじっても仕方ないので、このくらいにしておこう。
 そういう理由で、死刑には反対の立場を決めた。 だって、上記の方法にバリエーションを付ければ、非武装探偵社にも報復完全殺人は可能である。 依頼料を受け取れば警察も、実行犯を特定できるだろうが、 「これはさすがに可哀相」という場合にボランティアで報復する程度なら、実行犯の特定は不可能だ。 あくまでアフターサービス。非難可能性も低い。





□3 冤罪事件には悪いが

 日本警察の科学力は世界一を誇る。 佐藤玲奈ちゃんの事件は、杖だとか睡眠薬だとか物的証拠が多々あるはずの殺人事件。 にもかかわらず、犯人は捕まらなかった。 これは、捜査に協力しなかった公文国際学園の問題であって、警察には落ち度はなかったと思う。 世界一の科学力と言っても、限界がある。光速を越える車は作れないのである。
 大袈裟な物的証拠が多々あるはずの殺人事件にして、この程度。 頭の良い犯人なら物的証拠を残さないことすらできる知能犯罪は、どうするのだろう。 つまり、警察が犯人を捕まえるのではなく、犯人はミスで捕まるのである。 だから悪人正機説ではないが、警察に捕まった人の方が救われる気がする。少なくとも人間味はある。

 だったら、警察なんか要らないじゃないかと言いたくなるが、久しぶりに自分で推理ミスをして実感した。 「情に棹させば流される」のである。確かに犯罪被害者の感情は尊重されるべきだけれども、 被害者の、「アイツが犯人に違いない」という言葉は真面目に相手してはいけないのだ。 そのためには、被害者と無縁の人が犯罪捜査をしなくてはならない。
 マックス=ウェーバーが、政治家に必要な資質として挙げた「情熱」と「冷静さ」は、相反する性質のようである。 すると、遺族が直接犯人捜しと報復をすると、間違った人を殺害する結果になる。 警察官が必要とされるのはそういった理由であり、 被害者よりは少し冷静な立場で「アイツが犯人に違いない」と公表することができる、というだけである。

 筆者の議論には、反論の余地があって、「単に警察が東大卒の肩書きに弱いだけだろう」という話もある。 有力な反論として、「東大卒の肩書きに弱いのは警察だけじゃない」というのもあるが、 警察のキャリア官僚は確か半分くらい東大卒が占めているのに、そもそも容疑者で東大卒に出会う可能性は低い。 「話くらい聞いてやれ」という流れは、自然じゃない?
 それと、東京大学の場合、足切り目的とはいえセンター試験で5教科7科目をぼくの入学時も課された。 3教科しか課されていない大学だと、警察官との応答でミスが出やすいのではないかと思う。 公務員試験にも、教養科目はあるのだ。 星を見ていたと言い訳して、真冬に「さそり座のアンタレス」などと答えたら、「詳しい話は署で聞こうか」という流れだ。





□4 加害者に同情の視点

 つげ義春も、いろいろ書いているが、「4つの犯罪」と「7つの墓石」が収録された文庫版などは、 主に探偵物、昭和30年代の少年犯罪の現実を突きつける。 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の昭和30年代シーンや、「三丁目の夕日」などは平成期に書かれた回想物であり、 昭和30年代を知るには原典にあたれというか、つげ義春なら市立図書館にも置いてある。
 筆者が昭和文化史として初めて読んだ頃、小川三四郎探偵事務所で殺人事件を扱うなど想像もしていない頃で、 戦後世代が夢中になって読んだ本として、文化史の教科書を確認する程度の読み方しかできなかった。 だが、現代の殺人事件を扱っている最中に読み返すと、まったく違った印象を受ける。 被害者に同情的な現代の世論とは違って、加害者に同情的だ。

 ここでの殺人はたいてい、「高い志と才能はあるが、生活苦を抱えた青年」が、「志もないのに金だけ持っている傍観者」を殺す。 そして金を奪うという強盗殺人である。つげ漫画の場合、「高い志」=「漫画を描く情熱」のような感があるのはご愛敬か。 「ゲゲゲの女房」で再現された場面は、この加害者の視点に立った描写が「青少年に有害」と非難されたのだと分かる。
 しかし、戦争で空襲が来れば金も命も無くなってしまった戦時中を思えば、 焼かれる金なら、日本の漫画界発展のために使われていればという思いは理解できる。 さらに、戦争のない平和な時代なら、彼は高い志と才能で夢をつかんでいたはずだから、 殺人を犯したのは加害者ではなく、「戦争を起こした悪い大人たち」という発想は自然である。

 では、なぜ推理漫画なのだろう。 これは成功した漫画家が、「高い志と才能を持ちながらも、生活苦のために強盗殺人で身を滅ぼした親友」を追悼して、 「こんな漫画のような犯行が可能だったら、アイツとは今でも良い親友でいられたのに」と空想しているのじゃないか。 そんな時代が去った今も、当時の漫画家の志だけは受け継がれ、推理マンガが残っているというわけだ。
 すると露骨な性描写も、容易に理解できる。 「アイツも、せめて子どもでも残してから刑務所に送られたのなら、俺たちには赤ん坊の面倒を見る楽しみがあった」と空想した。 だから、その漫画で啓蒙された世代には、性描写規制と平和憲法が結びつくのである。 戦争に巻き込まれた世代の心の傷を映す鏡が、貸本漫画の世界観といってもよい。





□5 戦争は何だったのか

 センター試験で「倫理」を選択した知識から言うと、戦後とは「自然状態」だと思う。 戦争は、高度な設計図−エイドス(形相)−を残したまま、物質文明−ヒュレー(質料)−を破壊した。 まあ、もっとも戦前の設計図にミスがあったから戦争になったわけだが、 設計図のミスは建物を壊しても、設計図そのものは壊さない。ヒンドゥー教のシヴァ神に似ている。
 設計図があったのなら自然状態ではなかったとも言えるが、法律があっても守られていなければ法律でない。 つまり、設計図は一握りの為政者の頭の中にはあったが、多くの民衆の頭にはなかった。 ならば戦後すぐの日本は、「再び戦争を起こせるだけの」文明を持ちながらの自然状態だった。 これを、どのように考えるべきか。

 恋愛の設計図のみ残ったが、恋人は自死した。玲奈ちゃんのことである。 残った設計図で亜友を組み立て直したら、彼女の知能は回復した。それだけのことである。 DNAを残して個体は死滅した。個体が先か、DNAが先か。 生物学の世界ではそういう問題になるが、ここは法学の頁なので深くは触れない。 だが、考えてもみれば恐ろしい話だ。
 大江健三郎のエッセイで、似たような話を読んだ記憶があるが、 「個体を殺してもDNAが残れば、クローン人間制作は可能だから、個体は死んだことにならない」とも言える。 大江氏の名誉のために断っておくと、これは同氏が子どもの頃の「ぼくは死ぬのだろうか」という話であり、殺人の話ではない。 さておき、過去の敗戦はこの理由で正当化される。

 すると、「クローン人間制作は違法だが、死者のDNAと生者のDNAで受精卵を作ることは違法でない」とも言える。 仮にそれが可能だとすると、玲奈ちゃんとの間に子が欲しいかは別問題でも、 この場合、「玲奈ちゃんは難産で死んだ」ことになり、愛した故に自死した現実に近い。 こう考えた場合には、ぼくは玲奈ちゃんを自死させた犯人を恨まずにすむ。
 そう考えると、資本主義による科学と医療技術の発展にも意義を見いだせる。 「殺人犯を必要以上に恨まずに済むように」生殖医療技術を発展させたのだという視点が可能だから。 まあ、ぼくの子どもとして玲奈ちゃんの子が生まれてきた場合の、 玲奈ちゃんのお父さんの複雑な気分は、人類の永遠の課題であって、法律ではどうにもならない。





□6 有印私文書偽造疑惑

 戦後の混乱期に、高い志と才能を持ちながらも生活苦から犯罪に走った青年と、 「佐藤玲奈殺人事件」後の混乱期に、 高い志と才能を持ちながらも生活苦から犯罪に走りかねないと心配された筆者の相似関係である。 生活苦といっても金銭的な問題ではなく、統合失調症の母親という精神的な問題であり、 それには経済的な不利益も付随していた。
 「だからといって、手を差しのべてはいけない」、「特に金を与えてはいけない」というのが歴史の教訓である。 この教訓を身に染みて理解し、実践しなくてはならないのが政治家である。 すると、政治家の周りで犯罪が頻発する理由は、「金を与えて犯罪を止めよう」とはしないからである。 まずこの発想が、平均人の日常感覚とは少し違うということである。

 すると筆者に有印私文書偽造疑惑がでてきた時、政治家の発想は2つに分かれたと思う。 1つ目は「岡澤君も、やっぱり生活のために犯罪に走ったのか」という反岡澤系グループと、 2つ目は「岡澤さんには、別の目的があるんじゃないか?」という親岡澤系グループであり、 鎌倉簡裁での少額訴訟の筆者の一挙手一投足に政治家の注目が集まった。
 すぐに筆者は、横浜地裁に訴えを続けたわけで、金目当てで有印私文書偽造した人間の行動には思えなかった。 "1'984'209" 円という請求金額からも、金目当ての訴訟ではないことが分かった。 「岡澤さんを○○や××のような、金目当ての政治家と一緒にするな!」と、 現在の分裂含みの内紛の火種は、あの総理辞任劇の時からあったのだろう。

 「なら岡澤君の目当ては女だ。証人尋問で亜友を呼び出したいだけだ」と、対立は続く。 という事情で筆者は 500万円反訴され、自分に不利な亜友の陳述書を叩きつけられ、次の一手に注目が集まった。 証人請求の書面は提出したものの、「できれば亜友を反対尋問したくない」と主張した期日、 筆者の有印私文書偽造疑惑を心配した亜友が、父親に付き添われ傍聴席に来た。
 すると、「自分は金で子分を飼い慣らしているくせに、他人の純愛を疑うのは政治家の恥ずべき悪徳だ」と、 小学校の学級会で「友達同士でお金の貸し借りはやめましょう」と話し合っているようなものか。 法律が、このようにして作られていることを考えると、 殺人を論じるのに「つげ義春」を持ち出してきた筆者の切り口が、比喩ではないのだと納得していただけただろうか。





□7 つげ義春と教育ママ

 つげ義春の探偵小説に啓蒙された少年たち。強盗や恐喝の横行する昭和30年代。 絶対、自分たちで強盗を捕まえようとして、実際に警察署長から感謝状を受けた奴がいたな。 その新聞記事を見て、「俺たちもやってみようぜ」と真似する奴が多発した。 そして、死亡記事として掲載される場合も多々あった。 だから、「子どもに良くない」と、教育ママたちの反発を買った。
 実際には、死亡記事になるまで深追いできる有能な少年探偵は稀少だったにもかかわらず、 モンスター地域住民の反発を受けて警察署長から相談を受けた旧文部省が、 公文教育研究会や創価学会の算数教育に目をつけたという流れも何となく見えてくる。 それで学校は、「子どもたちを閉じこめる牢獄」として整備され、だから教育学者の言うことは的外れなのだ。

 さらに戦後史と照らし合わせてみると、地域の英雄の少年探偵は愚連隊から暴力団組長に収まり、 「警察よりも頼りになる」と、暴力団城下町が栄えたのだと思う。 そして、暴力団城下町を整備するために「土建屋」と「政治家」と「暴力団」の癒着が始まった。 ところが暴力団志願の青年が増えるとともに、養うための「ムダな仕事」が必要になった。
 これは田中角栄の頃に最盛期を迎えるが、逆に暴力団は治安悪化の原因となり市民に敵対される側になる。 1980年代、好奇心旺盛な少年探偵たちのターゲットは、「街中の強盗」から「校内の教師」へとシフトした。 それで旧文部省は、任天堂に相談したわけだ。 好奇心旺盛な少年探偵たちに、倒す相手として学校教師ではなく、ダンジョンのラスボスを与えるために。
 これは、高橋名人が「ファミコンは1日1時間まで」と言っても聞かない。 すると今度は、「ゲームばかりで勉強しなくて困る」と、教育ママたちは学校に苦情をつけにくるわけだ。 そこで今度は逆転の発想で、IT革命で大人向けのゲームを解禁し、 大人も子どもも仮想世界に夢中になれば、学校に苦情をつけにくる教育ママは相対的に減るというわけである。

 筆者は、そのあたりで小学校を卒業した。 こうして考えてみると、子どもの教育が進歩しているのではなく、教育ママへの対処法が進歩しているだけである。 すると、戦後、子どもの知能指数が向上した理由が良く分かる。 一見して子どもの教育が進歩しているかのように見える数値を公表しておけば、教育ママの苦情が減るのだ。それも、世界共通で。
 それでも存在するモンスター・ペアレント。 公文国際学園の実例を考えてみると、教育ママの過激な苦情は、性的欲求不満の表れである。 ああ、それで教育ママを黙らせるには結婚の段階から介入すべしと婚活ブーム。 犯罪の温床となりそうな夫婦を減らすためだ。 そして、暴力団を組織させるわけにいかないので、ムダな仕事を与えている。



□8 戦争を起こした父親

 戦後文化史の別のコラムにも似たような話を書いたが、 過去の戦争に関して責任を感じている世代は、自分の子どもに対して強いことを言えないのである。 それ故に、戦後ベビーブーマー世代から性の乱れも始まっていたとはいえ、 彼らの父親世代は、自分の息子や娘の品行の悪さを、大声で叱りつけることが出来なかったのである。
 すると逆に子どもの方も、自信を無くしている父親世代の心中を見透かし軽くあしらっているわけで、 「親が作った食事より、工場で作ったラーメンにお湯を注した方が旨い」とか言い出すわけである。 それで戦争を起こした世代は、そこまで伝統文化を馬鹿にされても、子どもを叱りつけることができない。 親を信用できない子どもは、親の代用品として「モノを作るロボット機械」を作り続けた。

 それで親の代用品として、家電製品に家事をさせ、 親の代用品として、公文教育研究会の算数教材が必要になり、 親の代用品として、ファミコンが必要になった。 我が子からの信頼を失った親たちは、馬車馬のように働き続け金を稼ぐしかない。 そして親への不信が皮肉にも、日本の経済発展の原動力となった。 これが、「敗戦」という現実なのである。
 それで戦後の文化をハンス=アンデルセンの「裸の王様」に喩えると、 反戦フォークゲリラなど典型的だが、「戦争責任のある大人には理解できない若者文化」が栄えたわけだ。 だから、どんなに伝統を踏みにじる文化であっても、大人たちは若者文化に理解のある振りをしなければならなかった。 それが、敗戦国のサガなのである。

 ただ、これは敗戦国ばかりではない。 不幸にも父親や母親が殺人を犯したような家庭では、 「親が作った食事より、工場で作ったラーメンにお湯を注した方が旨い」はずである。 我が子にこんな科白を吐かれたくなければ、親は殺人をなすべきではない。それだけだ。 ところが、不幸にも殺人は起きるし、殺人犯にも息子や娘は生まれる。
 すると世界中の、そういう不幸な家庭では、親の代用品としての日本製品が珍重される。 敗戦国の製品は、世界中の敗者から需要される。たぶん、これが敗戦国の経済原理であろう。 だから、日本製品が世界中から需要されているというのは、人類史的には不幸の証なのだと思う。 そんな日本経済を世界に誇ることは、歴史の恥だ。無知の証だ。



□9 死刑は人権の侵害か

 死刑は人権の侵害としか言えない。国家の刑罰権の範囲を超えている。 しかし、「人権の侵害だから死刑は良くない」かというと、そうとは限らない。 全国的に有名になってしまった殺人犯とか、性犯罪者の場合、「国内に良い死に場所がない」事態も起こり得る。 無期懲役の独房で孤独死してゆくのは、死刑よりも人権侵害じゃないかという意見もあり得る。
 「お前なんか、生きていても死んでいても別に構わないよ」と言い放つのも、「虐待」という人権侵害に含まれる。 「お前なんか、死んでしまえ」という発言も「虐待」という人権侵害だろう。 この虐待後に、被虐待者が自殺して、殺人罪の成立を認めるような状況ではなかったとする。 後者には自殺教唆罪成立の余地はあるが、前者には自殺教唆罪成立の余地はないだろう。

 つまり無期懲役は前者で、死刑は後者と、その程度の違いしかないのじゃないかという意見である。 そして、「無期懲役は、本人の心の強さ次第では孤独に耐えられる。だから死刑ほど残酷ではない」ということになる。 しかし精神医学が発達した現代でこれを考えると、「無期懲役は差別的」である。 「この人は無期懲役に耐えられそうだから、死刑!」というのもねえ。
 さらに、1ヶ月の昏睡状態で心肺停止した経験のある者の立場だと、死刑ってそんなに苦しくないと思うよ。 絞首刑は窒息死ではなく、第3頸椎骨折での神経切断が死因。 神経のパルスは心臓から送られてくる電流だから、首で神経を切断されると頭部の神経は全く動かず痛みも感じない。 たぶん、小脳出血の方が、余程痛い。でも、苦しんだ記憶はないしなあ。

 亜友にストーカー扱いされた孤独の方がよほど苦しかったことを考えると、苦しさは無期懲役の方が上。 ただし、心肺停止状態を経験したことのない人にとっては、死刑の方が「怖い」。 法律的には、「刑罰なんだから苦しませるのは仕方がない」が、「怖がらせるのは脅迫罪じゃないか」と。 すると確かに、だから死刑廃止論の方が、理にかなっている。
 だが、社会的に孤立させて孤独死させるのは、別の人権侵害である。 そのくらいだったら、苦しませずに殺してやった方が親切とも言えるわけで、 死刑に代わる制度として、「殺人」があっても構わないわけである。 ただし、本当に孤独かどうかは、本人と真剣に向き合って話をしなければ分からない。 だが、そのプロセスを踏んだ場合、本人は孤独でなくなる可能性が高い。 これでは制度としての「殺人」の意味がなくなるが、別に良いではないか。





□10 そんな中流意識の心

 「そのためには警察の心理技官の水準をあげることが必要で、予算が必要なんだ。 そのためには税収を増やすことが第一で、景気を良くすることが俺たちにできる最大の貢献だ」というのが経済の論理なのだが、 この論理は「自分たちよりも有能な心理技官の存在」を前提としている。 小川三四郎探偵事務所としては、これは知的な中流意識だと思う。
 小川三四郎探偵事務所としては、「この事務所より優秀な探偵は、お金じゃ雇えないと思いますよ」である。 「愛はお金じゃ買えない」わけでなく、東京大学の理学部数学科を、特に整数論関係のゼミで「優」を取って卒業すれば、 「現在の人類(表社会)の知能の上限がどの程度か」想像できるようになる。 お金でどうにかなると考える人は、「現在の人類の知能の上限」が見えていないはずである。

 −こういう人が財務省に就職したから、数学科は駒場に飛ばされたんだろうなあ−

 あくまで一般論として知能の話を書いたまでだが、犯人がぼくの自殺を偽装するために置いた杖を見た佐藤玲奈ちゃんが、 ぼくの杖を足場にして自殺防止用フェンスを飛び越え自殺した話。 この自殺に前例があるとも思えず、特殊な知識が必要とも思えない以上、この推理は純粋に知能テストである。 だからこそ、逮捕状の前に再現実験をしておく必要がある。
 他にももう一つ、ぼくの母のアリバイ協力の動機もぼくが解明した。 ぼくが公開した情報を使い知能テスト風に推理できる割には、警察が先に解明していたとは思えない。 事前の準備を必要とせず、ただ純粋に「頭がよい」というだけで事件を解明して被害者の遺族や無実の被疑者に感謝されるというのは、 正直なところ小学1年のコナンにもできる

 逆に言うと、ただ純粋に「頭が悪い」というだけの理由で殺人事件が迷宮入りしてしまうこともあるわけだ。 残酷だが、これが人類の知能の真実であり、数学者の自殺の原因とも言われる。 国会でも、「警察の捜査情報の公開」までは認められないだろうが、 「警察の捜査担当者の知能指数の公開」などは認められそうで怖い。
 だが、公務員である警察がこれを始めると、民間企業がこぞって追随して「担当者の知能指数の公開」とかやりそうで怖い。 これが始まると努力が関係なく、単に「頭がよい」というだけで高収入が保証される世の中になる。 ただし、現時点で既に、知能指数の高い人はあまり努力せずに要領よく生きているような気もするが。





□11 Death Note的世界観

 ぼくが、警察よりも先に呆気なく玲奈ちゃん事件の真相を解明し、英雄扱いされたとなると、国民の射倖心が刺激される。 確かに自殺防止用フェンス設置だとか動機だとか、混乱した事件ではあるが、 「被害者は、遺品に見せかけた恋人の杖で自殺防止フェンスを飛び越えた」というのは、 「杖を与えたら柵の向こうのバナナが取れた」という動物実験に似ている。
 これは相当に極端な例だと思うが、 オランウータンにも解けそうなトリックが解明できずに迷宮入りした殺人事件が少なくとも1つ見つかった以上、 「俺も未解決事件を解明して人生一発逆転?」という国民の射倖心を煽りかねない話である。 すると2011.7.29. のNHKスペシャルではないが、「緊急キラ様特番」にも似た未解決事件特番が増える。

 あっさりと単純なことを指摘しておくと、今回重要なぼくの推理は「アイツが犯人だ」というのとは少し違う。 警察には推理できないままぼくが推理した因果関係は多分2つで、「玲奈ちゃんの自殺の真相」と「ぼくの母の協力動機」。 後者は、明らかに母を弁護する結果となった人権擁護の推理だが、 前者だって、内村・母の殺意を否定した人権擁護の推理である。
 そう考えると単純な結論だが、警察は「関係者を見たら真犯人(ホンボシ)と思え」で捜査するあまり、 冷静に考えれば偶然そこにあっただけの証拠を見て、「お前、最初からそのつもりで準備したな」と推理して、 かえって事件を迷宮入りさせてしまう。 逆に言うと民間人の推理の方が、被疑者の人権を擁護する結果となることが多いともいえる。

 すると、民放が「緊急キラ様特番」のように未解決事件を報道しようと、 「警察より、視聴者の中にいるかもしれないキラ様の方が、真犯人の人権に配慮した推理をされることが多いんだよ」 と正当化される。 視聴者の射倖心を煽る低俗な番組という感は否めないが、それも含めて "Death Note" 的世界観と一致する。 さて、何故だろう。
 これは、ぼくの動物行動学のページなんかで典型的だが、「この世界には『救い』なんてないよ」が正解なのじゃないか。 しかし救いの神がいなかったとしても、趣味でやっている死に神はいるわけで、 「死に神は稀に貴方を殺そうとしている人を殺すことがあります。 なお、彼は死に神なので相手が国家権力だろうと特に遠慮はしません」が正解じゃないか。





□12 死に神と偶然防衛

 例えば警察より先に、「この人が殺人犯だ」と発表することは名誉毀損である。 ただし、実際に殺人が起きた以上、この行為には正当防衛ないし緊急避難が成立すると思われる。 そして推理が外れた場合には、誤想過剰防衛ということで処罰の対象となる。 なお厳密に言うと、確定判決が出る前にマスコミが殺人犯を報道するのも名誉毀損は名誉毀損である。
 法律論として厳密には不思議なことに、 「この人が殺人犯だ」という推理が完成した後で犯人を追いつめる行為には防衛意思が認められるが、 8割方の心証で推理を開始して「やっぱり彼が殺人犯だ」という場合には、再発の可能性への偶然防衛となる。 つまり「2」に書いた新聞投稿は、工藤新一(コナン)を「あんなの偶然防衛だ」と非難しているのである。

 つまり、最初から加害意思をもって被疑者を追いつめたとしても、実際に相手が真犯人だった場合には偶然防衛が成立する。 「実は最初から犯行計画を耳に挟んでいた」とでも言えば正当防衛が成立して探偵は名誉毀損の罪を問われない。 だが、本当に最初から犯行計画を知っていたかどうか科学的に解明できない以上、この名誉毀損は完全犯罪となる。
 この種の偶然防衛は、「死に神は稀に貴方を殺そうとしている人を殺すことがあります」という流れで感謝されるわけだが、 積極的加害意思を持っていたとしか思えない死に神が真の被害者に感謝され、 正当防衛が成立して不起訴処分というのは「正義に反する」というのが新聞投稿者の真意なのだろう。 まあ、そこまで難しいこと考えていないか。

 逆に言うと、工藤新一(コナン)の方は自分の行為が、 「正当防衛として逃げ切ることが出来るけれど、実は偶然防衛の完全犯罪」であると自覚しているはずである。 無事故・無違反で犯人を追い込み続けているのだから、そのくらいの知識は持っているはず。 つまり単純に、次々登場する犯罪者よりも工藤新一(コナン)の方が、犯罪者として一枚上手なのだ。
 つまり反社会性の人格が強くても、正当防衛や緊急避難の思想があり、且つ知能が充分に高ければ、 緊急事態のドサクサに紛れて反社会的欲求を発散させ、死に神として人々に感謝されることがありうるのである。 一般的に教育現場においては「好ましくない」とされる反社会性の人格が英雄視されるのだから、 反感を抱くのも仕方がないことだろう。
 ふと読み返していて気付いたのだが、敗戦のドサクサに紛れて反社会的欲求を発散させ、 暴力団員たちは死に神として人々に感謝され、権力を握った。 食糧不足のドサクサなのだから、警察も過剰防衛程度では厳しいことを言わなかったわけだ。 つまり単純に刑法理論も、「緊急事態の発生は、教育上好ましくない」というだけじゃないのか?


 Death Note 破滅のラスト・シーン。「他の奴に出来るか。ここまで出来たか。この先出来るか?」という夜神月の言葉だが、 「確かにその通りです。しかし、誰も正解を完成させていない答案に部分点を認めるわけにはいきません」 というのが、歴史の採点基準。彼は死に神として、防衛意思か知能指数のどちらかが不足していたのだ。





□13 工藤新一プロファイル

 単純なことに気付く。反社会性人格障害とまではいわないが、工藤新一は社会性が低い。 「他者に認めてもらいたい」という欲求が足りないか、あるいは欠如している。 たった今までの分析でさえ、そもそも工藤新一には反社会性傾向があるように思える。 さらに彼はコナンになってからは、自分の手柄をあっさりと毛利探偵や仲間たちに譲ってしまう。
 「それは黒ずくめの男に命を狙われるからだ」という反論は可能だが、 それならば通常の小学生と同様に、工藤新一に戻った日のために黙々と準備をしていればよいはずだ。 要するに彼は今まで以上の手柄を立てて「他人に認められたい」という欲求が低いはずである。 他にも、「工藤新一の体に戻るための研究を阿笠博士任せ」という点も指摘できる。

 さらに、エゴが随分と強そうな幼馴染みの毛利蘭。 新一が、自分に届いたファンレターを自慢している場面は第1話だかにあったが、 それが本当に「他者に認めてもらいたい」欲求の表れなら蘭とは上手くいかなかったのじゃないかと思う。 むしろ新一が自分の手柄にこだわらず、あっさり「全部、蘭にやるよ」タイプだったから2人は長続きしたと考えるべきだろう。
 もっとも連載開始から現在までに、コナンの行動パターンも変化していると思う。 YouTube で劇場版を観る限りでも、今やあそこまで危ない橋を渡る新一が黒ずくめの男の襲撃を恐れているとも思えない。 本質的に「他者に認めてもらいたい」欲求が低く、 唯一の例外=毛利蘭に認めてもらえれば「それ以外の他者の評価には興味ねぇよ」という本心が透けて見える。

 ということは毛利蘭ポジションの女の子は、新一からは「全部、蘭にやるよ」とけっこう凄いものを受け取っておいて、 「俺のことは黙って何もしないで、見守ってくれていればいいさ」というわけである。 しかし、本物の工藤新一なら「他者に認めてもらいたい」欲求も低く、TV出演も控えめのはず。 つまり「女の子たちが探している場所に本物の工藤新一はいない」はず。
 さて政界に目を転じると、「全部、先生に渡して」とけっこう凄いものを手渡しておいて、 「俺のことは黙って何もしないで、見守ってくれていればいいさ」という工藤新一の存在が見えてくる。 つまり、「ぼくも何か社会の役に立ちたい」と言っている人同士だと衝突が避けられない。 不思議なことに、「社会性が低い」人の方が世界平和に貢献するのである。


警察 「岡澤さんは、やはり反社会性人格障害だと思いますか?」
●織 「いいえ。あの人は『人格障害のカクテル』です」





□14 完全犯罪と透明少女

 完全犯罪などと言われると「三億円事件」などが真っ先に思い浮かぶ人もいるだろうが、 現代ではこの種の、鮮やかな完全犯罪はありえない。 社会生活に刺激が溢れている現代社会では、 「○○事件の犯人はまだ逮捕されないのかな」と心待ちにしているのも被害者の遺族くらいだ。 一般視聴者は、犯人逮捕のニュースで事件を思い出す程度でしかない。
 そうなると、自己顕示欲から完全犯罪を実行しても、まず自己顕示欲は満たされない。 「世界一の科学力に挑戦する」つもりで完全犯罪を実行しても、その完全犯罪の成功を証言してくれる観客がいないのだから、 ギネス記録どころか、公式な記録にはならない。 単なる迷宮入り事件も溢れている以上、完全犯罪を完成させたところで、誰もかまってくれない。

 警察も、捜査の経過を逐一報道するようなことはしない。 だから「誰かに認めて欲しくて」犯罪に走るとすれば、現行犯逮捕してもらうしか方法がない。 そうなると、ほとんど警察との身柄取り引きである。 暴力団員が、「これは俺たちの犯行だ」とアピールするために身代わりの組員を出頭させ自首させ、逮捕というのと同じである。 これが現代日本の犯罪文化。
 では完全犯罪は国内から消えたかというと、そんなことはない。 犯罪として完成してしまったが故に科学的な証拠が一切残らず、事件直後から「迷宮入り」が確定しているのだ。 「誰かに認めて欲しい」欲求の欠片もない、犯人の社会性の低さの証である。 だから、透明少女による犯罪だと思って構わないという理屈だ。警察も、報道発表に困る。

 「誰かに認めて欲しい」欲求の乏しい透明少女でも、これでは透明少女としての特権を活用しているとは言えない。 単に誰にも気付いてもらえないだけなら普通の女の子にも劣る。 時には柳の木の下で男を驚かせてこそ、である。 ところが様々なものが街に溢れる最近は、実際に襲われるまで彼女が透明少女であることを信じない男も多い。
 さらに男を襲ったところで、彼の友人たちは「最近、アイツ携帯変えたのかな?」「メアドも行方不明だよね」と、 たとえ彼の周辺で不審な事件が頻発していたとしても、透明少女の存在をことさらに黙殺する。 せっかくの透明少女としての特権が全くない。 だから、透明少女の存在を予言し、手口を解明したこの website は、スピーカーとして重宝されていたと


「最近の犯罪は手口が巧妙化したから、実況と解説がないと難しい」
「だから事件発生時の報道は録画しておいて、犯人逮捕時にまとめて見る輩が出てきた」













 旧コラム 「法律の抜け穴」